聖心女子大創基100周年記念ミサ


2016年11月29日(火)、聖心女子大学聖堂

[聖書朗読箇所]

説教

聖心女子大創基100周年、おめでとうございます。  

今日の記念ミサの福音、ルカによる福音でイエスは言われました。  
「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」(ルカ10・22)  
イエスは、父である神を知る者、父の心を知り、父である神の心を生きた方です。実に主イエスは、見えない神の見えるみ顔です。誰も見たことのない神は、ナザレのイエスという人においてご自分を余すところなくお示しになりました。イエスは弟子のフィリポに言われました。  
「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14・9)  

カトリック教会は教皇フランシスコのご意向にしたがい、「いつくしみの特別聖年」を祝ってきました。昨年の12月8日の無原罪の聖マリアの祭日から本年の11月20日の王であるキリストの祭日が「いつくしみの特別聖年」にささげられました。  
いま「いつくしみの特別聖年」終了直後の時を迎え、今日、カトリック大学である聖心女子大の創基100周年記念を祝う日、わたくしはどうしても「いつくしみ特別聖年」についてお話ししたいと思いました。  

「主イエス・キリスト、あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」(教皇フラウンシスコ、「『いつくしみの特別聖年』」のための祈り)」より)  
主イエスの示した父である神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神であり、モーセに現れた神、同じ神です。神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を授け、救いと安息への道を示しました。それにもかかわらず、イスラエルの民は神との約束を守らず、数々の背信行為に陥りました。この民の裏切りに対して神は激しく怒り憤りを発しました。しかし他方、神はイスラエルを憐れみ赦そうとします。  

この神の心にある「葛藤」をホセア預言は次のように述べています。  
ああ、エフライムよ  
お前を見捨てることができようか。  
イスラエルよ  
お前を引き渡すことができようか。  
アドマのようにお前を見捨て  
ツェボイムのようにすることができようか。  
わたしは激しく心を動かされ  
憐れみに胸を焼かれる。  
わたしは、もはや怒りに燃えることなく  
エフライムを再び滅ぼすことはしない。  
わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。  
怒りをもって臨みはしない。(ホセア11・8-9)  

ここには、あたかも、神自身が葛藤に悶えているかのようです。ここでは、痛みを負う神の姿が述べられております。この苦しむ神はイエス・キリストの十字架の先触れのような気がします。  

時代が下がって、新約聖書の時代の直前に現わされた聖書が「知恵の書」です。ここでは人々を慈しみ憐れむ神の心がはっきりと表れています。  
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、  
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。  
あなたは存在するものすべてを愛し、  
お造りになったものを何一つ嫌われない。  
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。  
あなたがお望みにならないのに存続し、  
あなたが呼び出されないのに存在するものが 
果たしてあるだろうか。  
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、  
あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵の書11・11・23-25)  
まさにここには、存在するものはすべて神のみ心によるのであり、神は存在するものをすべて慈しんでいる、とはっきり述べられているのです。  

さて、コロサイ書はイエスの後の新訳聖書の時代の作品です。  
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(コロアサイ3・12)  

わたしたちはイエスに出会い、イエスを通して、神に選ばれ、神に愛されている者であることを知り信じたのです。  
神は愛であり、すべての者を慈しまれる。欠点がり、過ちを侵し、罪深い者であっても、神はその人を慈しみ、大切なかけがえのない者と思ってくださる。  
キリスト教のメッセージは結局この命題に尽きるとわたしは思います。    

罪ある人を受けいれるということは、罪という「とげ」を受け取ることであり、「とげ」が突き刺さるので、痛みを憶える、ということです。人を愛するとは、その人の「とげ」を受けるということにほかなりません。それは人を赦す、ということでもあります。  

コロサイ書はさらに述べています。  
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロサイ3・13)  

今日の聖書朗読はさらに次の言葉で結ばれます。  
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3・17)  

聖心会は、イエスの愛である「聖心」を生きる修道会であります。「イエスの聖心」とは苦しみと痛みを負う主イエスの愛を表しています。  

主イエスの痛みの愛を生きる聖心会の会員の皆さんとその事業に協力してくださるすべての皆さんに、いつくしみ深い神の祝福が豊かに注がれますよう、祈ります。

聖書朗読箇所

第一朗読 コロサイ3・12-17
福音朗読 ルカ10・21-24

(福音本文)

〔そのとき、〕イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」  
それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 

 

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