豊田教会献堂50周年ミサ説教

2016年11月27日、待降節第1主日、豊田教会

[聖書朗読箇所]

説教

豊田教会のみなさん、そして、ご出席のみなさん、今日は、わたしたちのこの教会の献堂50周年のお祝いをしております。  

折しも、今日は、待降節の第1主日でございます。教皇フランシスコのご意向によって、わたしたちは「いつくしみの特別聖年」を過ごしてまいりました。特別聖年は終了いたしましたが、神のいつくしみは絶えることがないのであります。  
そのような、特別な日を過ごし、今日の、待降節第1主日の福音朗読、第一朗読、第二朗読から、わたくしが感じておりますことを、ひと言、ふた言申し上げて、みなさまとご一緒に味わっていきたいと思います。  

今日の、マタイによる福音で、主イエスは言われました。「目を覚ましていなさい」、或いは「あなたがたも用意していなさい」。どういう意味でありましょうか。  
人の子の来臨、人の子が思いがけないときに来ます。そのときに備えて、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」と言っておられます。  
ただ、わたくしには少し分かりにくいと思うのは、「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉です。  
これは、何を言っているのでしょうか。同じことをしているのに、二人の中の一人ずつが、違う結果になる。どういう意味なのでしょうか。  
そこで、何かヒントはないかと考えました。少し遠回りになることをご了承いただき、第一朗読と第二朗読の言葉の説明を行いながら、今日の主の言葉の意味を考えていきたいと思います。  
まず第一朗読、イザヤの預言にそのヒントを求めますと、「剣は鋤に、槍は鎌に」という言葉に出くわします。平和旬間などによく読まれる箇所ではないかと思います。そして、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」という言葉で結ばれています。それが、結論であります。  
同じく第二朗読のローマ書にそのヒントを求めますと、この箇所も、度々耳にする箇所でありますが、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」という言葉に出くわします。  
「光の中を歩もう」という言葉は、イザヤの言葉ですが、パウロの言葉は、「光の武具を身に着けましょう」と書き加えられています。 この「光」、それは、神様からの光、或いは、主イエスからの光。「光からの光」と、主イエスはニケア・コンスタンチノープル信条で言われています。  
「主の光を受け、主の光の中を歩みましょう」と聖書は告げている。「光を受け、光の中を歩もう」とはどういうことだろうか。多分、「いつも目を覚ましていなさい」という言葉は、「主の光を受け、主の光の中を歩もう」ということと同じではないか、少なくとも通じているのではないかと思うのです。  

同じことをしていても、違う結果になる。それは、どういう意識を持って、どういう動機を持って、その仕事をしているかによって、結果が違ってくるのではないかと思います。  

この世のことをしてはいけないと、聖書は言っておりません。この世のこと、地上の仕事を、わたしたちは誠実に、忠実に果たさなければなりません。何もかもやめて、山の中に閉じこもって、朝から晩までお祈りをしていなさいということではないわけであります。  畑の仕事、或いは、臼をひく、その時代になくてはならない大切な仕事でありました。畑の仕事、臼をひく仕事を、誠実に、真面目にしながら、いつも主が来てくださるときに備えていなければならない。そういう意味ではないでしょうか。  

どんなことをしていても、わたしたちは、心を天にあげ、そして、その瞬間、いまを大切に過ごしたいと思います。今というときは、刻々と過ぎていきます。  

もちろん、人間は、過去のことを思い起こして、過去によって支えられますが、過去のことをくよくよ思い出して、いまのことが疎かになってはいけない。そして、更に、明日のこと、未来のことを思いながら、わたしたちは生きますが、明日どうなるかが心配で、今のことが手につかないというようであっても、困るのであります。  

今なすべきことを、きちんと誠実に果たしながら、いつでも、主キリストに出会うことができるよう、心を整えているようにいたしましょう。  
今日の福音書の言葉はそういう教えではないかと思うのです。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 2:1-5
第二朗読 ローマの信徒への手紙 13:11-14a
福音朗読 マタイによる福音書 24:37-44

(福音本文)

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。  
人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。  
いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

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