王であるキリストの祭日・説教

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    2016年11月20日、五井教会

    [聖書朗読箇所]

    説教

    教皇フライシスコが大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」によって公布した「いつくしみの特別聖年」は、本日、2016年11月20日の「王であるキリスト」の祭日で最後の日を迎えます。  

    今日の福音はイエスが侮辱を耐え忍ぶ様子を伝えています。  
    (そのとき、議員たちは、イエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。  
    十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 

    人間の耐え難い苦痛のなかに「侮辱される苦しみ」があります。それは侮られ蔑まれたと感じるときの苦しみです。列聖された聖人でも、侮辱を耐え忍ぶためにはよく祈り、また、主イエスの蔑まれた時の姿を黙想したのでした。  

    「いつくしみの特別聖年」を終了する本日、わたくしは大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」の次の記述を思い出します。  
    「わたしの心からの願いは、この聖年の間にキリスト者が、身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざについてじっくりと考えてくださることです。・・・精神的な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること――、これです。」(大勅書13項)  

    この一年、わたしたちはこの戒めをどのように実行してきたでしょうか。とくに、「もろもろの侮辱をゆるすこと」をどのように実行してきたでしょうか。自分を振り返れば、自分の思いが誤解されたとか無視さえたと感じて不愉快になっている自分を見出します。  
    煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと」についてはどうでしょうか。くどくどとしつこく同じ話を繰り返し、人の話には耳を貸さない、という人に出会うと、もうすこしで切れそうな思いになります。  
    しかしイエスは「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5・5)と言われました。いつくしみ深いとは、忍耐強くまた柔和であることです。  
    「愛は忍耐強い。愛は情け深い・・・いらだたず、恨みをいだかない。・・・」(一コリント13・4-6)  

    さて本日は「王であるキリスト」の祭日です。  
    本日の第一朗読はダビデがヘブロンで油を注がれて「王」とされた、と告げています。  
    そもそもイスラエルには王という存在は認められておりませんでした。主なる神が王であるからです。しかしサムエルと主なる神は人々の強い要求を受け入れ、サウルが最初に王となりました。  
    ところが、結果的には、大部分の王は、「主の目に悪とされることを行った」王たちだったのでした。(列王記上下、歴代誌上下参照)  

    ところで本日の福音の告げる王であるイエスは、預言者エレミヤ、イザヤなどを通して告げられた主の僕であるメシア、王としてこられたのです。イエスは、侮辱を受けながら人々のために自らの命を献げる王でした。  
    今日の福音が告げる屈辱的なイエスの死は、わたしたちを贖(あがな)い、わたしたちに罪の赦しをもたらすための死でした。  
    イエスは敵を愛し、また自分を迫害する者のために祈るように教え(マタイ5・44)、その自分の教えを実行しながら地上の生涯を終えました。  
    イエスの生涯は罪人を赦し、罪人を救われる父である神の愛を現し伝えるために、ご自分を父である神に献げられたのです。  

    罪は罪、悪は悪であり、決して悪をよし、とするということではありません。罪ある人間を愛するとは罪人の罪のために苦しむ、ということであります。  
    使徒パウロは言っています。「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ローマ12・17)「愛は隣人に悪を行いません。」(ローマ13・10)  
    「いつくしみの特別聖年」は終わりますが、神のいつくしみには終わりがありません。
    日々神のいつくしみを生きることができるよう、祈りましょう。