諸聖人の祭日、晩の祈りの寸言

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    2016年11月1日、17時、東京カテドラル

    今日、11月1日は、諸聖人の祭日であります。主なる神の至福に与っている聖人方を思い起こし、その模範にならい、そして、わたしたちの願いを取り次いでいただくようにと特に祈る日となっております。  

    そして、明日、11月2日は「死者の日」であります。地上の生涯を終わって、主のもとへと召された亡くなった方々のために、特に祈る。ミサを献げ、そして、犠牲を献げる日とされております。  

    先日、このカテドラル構内で司祭集会がありました。3日間に渡って、わたしたち司教、司祭、助祭が集まり、司祭の務めについて話し合い、学んだ3日間であります。(もちろんわたくし司教、そして助祭も参加した集会です。)  
    その司祭集会に、他の宗教の方をお呼びして、お話を聞くということをいたしました。  
    今回、お越しいただいた方は、玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)という方なのですね。「中陰(ちゅういん)の花」という作品で、芥川賞を取られた、臨済宗のお坊さんで、福島県の三春(みはる)というところにお住みになっています。  
    「中陰の花」という小説ですが、中陰という字は「中(なか)」という字に、陰陽の「陰(いん)」で、「中陰」と表記します。  
    では、中陰というのはどういうことかと言いますと、「この世とあの世の中間」と書いてありますが、仏教では、すべての仏教の宗派ではないようですが、人は亡くなると、49日の間、この中陰という状態であって、50日目に、次の世界に移るそうです。  
    この49日の間、中陰に留まっている、亡くなった人のために供養する、お祈りをする、それが仏教の追悼ということだそうです。  わたしたちの信仰と、その点で、似ているのではないかと思います。  

    わたしたちは、この地上を旅しております。神のみこころに従って、この地上に送られて、そして、それぞれの人が自分の人生を歩み、そしてまた、神様のところに戻る。そういう、この地上の旅をしている。公会議の言葉によれば、「旅する教会」であります。  
    さきほどの神の言葉の中にありますが、  

    わたしは彼らの中に住み、その中を歩む。  
    わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。  

    この言葉を完全に実現した状態にある方々が、「聖人」と呼ばれる人ではないか、と思います。  

    神様のみもとに受け入れられる、神様のみもとに受け取ってもらうためには、それにふさわしい状態でないといけない。  
    コリントの手紙の中に「肉と霊の全ての汚れから自分を浄め、神を畏(おそ)れ、神のものとなるように生きようではないか」と述べられています。神様とお会いするのにふさわしい、そういうわたしたちになっていなければならない。そのためにはわたしたちは「浄め」を受けなければならない、ということだと考えます。  

    わたしたちは、「亡くなった方が、神様の懐に憩うことができるように、助けることができる。そのために、ミサを献げたり、お祈りしたりすることによって、亡くなった方を助けることができる」というように信じ、そして、教会は旧約聖書の時代から、亡くなった人のために祈るということをしてきました。  

    「煉獄(れんごく)」という言葉があります。「煉獄」というのは、地上の生涯の間も含めて、神様にお会いできるような、ふさわしい状態に、ふさわしい霊魂になるために受ける、色々な試練、そして、浄めの業であると理解することができるのではないでしょうか。  

    明日は「死者の日」で、亡くなった方々のためにミサを献げますが、今日は、聖母マリアをはじめとする聖人に祈って、わたしたちの霊魂の浄めをしていただけるように、お願いしたいと思います。