四旬節第一主日・洗礼志願式説教

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    2016年2月14日 関口教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    荒れ野においてイエスは40日間にわたり悪霊から誘惑を受けました。三つめの誘惑は、「神である主を試す」と」いう誘惑です。
    「神である主を試す」とはどういうことでしょうか。それは本当に主がともにいてくださり、守ってくださるだろうか、と思い、疑いを抱いて、不信仰に陥る、ということです。かつてイスラエルの民はモーセに率いられて、荒れ野でさまよい、水も食べ物もない状態に耐えかねて民は「果たして、主は我々の間におられるだろうか」と言って、モーセと争い、主を試みるに至ったのでした。(出エジプト17・1-7参照)
    主がモーセを遣わして民を救おうとしていること、神は力ある神、いつくしみ深い神であることを疑ったのです。
    その結果イエスらエルは安息に入るためには40年間の償いのときを課せられるにいたったのでした。
    さて今日の福音で出てくる悪魔の誘惑の話です。
    そもそもなぜ神殿の上から飛び降りる、という思いが出てくるのか。そのような派手な場面を作って人々の喝采を博したいのだろうか。神が本当にいつもともにいてくださるということを確かめるために行うということだろうか。
    いずれにせよ、この言葉、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』(ルカ4・9-10)という誘いにのることは、神への信頼が揺らいでいる、あるいはなくしている心の状態以外何物でもありません。
    悪魔は詩篇の言葉(本日の答唱詩編)を使ってイエスを誘惑したのでした。
    「現代の荒れ野」ということがしばしば言われます。荒れ野は生きるに過酷で、不毛な環境の世界であります。
    イエスは昇天に際して、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と言われました。しかし、どこに、どのようにして、ともにいてくださるのだろうか。このような思いを抱き、主が守ってくれるかどうか試すために何を思い、何かをするとしたら、それはまさに「あなたの神たる主を試みる」ことに他ならないことになってしまうのではないでしょうか。信頼しているなら試みるはずではないからです。
    「主の祈り」の「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」という言葉は不信仰への誘惑からわたしたちを守ってください、という思いが込められた祈りです。不信仰への誘惑は悪の霊から来るのであり、またわたしたちの欲望から生まれるのです。
    今日の申命記は、イスラエルの民が40年の試みの期間を終えて約束された地に入り、神が先祖たちに行われたいつくしみのわざを想起し、感謝している場面であります。

    第二朗読、ローマ書は、「口でイエスは主であると公に言い表し、こころで神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ10・9)と述べ、信仰告白の重要さを強調されています。
    今日、洗礼志願式に与る皆さんはいま「信条」を唱えて信仰告白をしようとしています。生涯にわたり、この信仰告白を固く保ち守り強め、そしてその信仰を多くの人に宣べ伝え証ししてください。