教区の歴史

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灰の水曜日ミサ説教

2016年02月10日

2016年2月10日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

ヨエルの預言で主は言われます。  
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2・12-13)  
四旬節は回心のとき、回心とは心を主なる神へ向けなおすことです。神はパフォーマンスではなく心からの悔い改めを求めています。  
聖書を読むとたびたび「衣を裂く」という表現に出会います。強い心の動きを表す動作を示しているようです。  ヨエル書の言う「心を引き裂け」という表現は、見せかけではない心からの回心、心から悲痛な思いで神に立ち帰ることを意味していると思います。  
今日の第二朗読からは次の言葉が強く響きます。  
「神と和解させていただきなさい。」(2コリント5・20)  

わたしたちは主キリストによって贖いの恵みを受けています。神との和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、キリストを通して与えられる神のいつくしみを受けることによってのみ可能となるのです。  
今日の福音は毎年同じ個所、マタイ6章、「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい」というイエスの教えです。  
イエスは、人の「偽善」を咎めています。わたしたちは偽善という問題をもっていないでしょうか。心と動作の間にブレとか不一致はないでしょか。  
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエスは教えています。  
今日、灰を頭に受けながら此の点を反省したいと思います。  

さて四旬節は特に「施し」ということが勧められます。施しという善い行いには、身体による善い行いと精神的な(spiritual)な善い行いがありますが、本来両者は一体となるべきものです。  

教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」で述べています。  
「わたしの心からの願いは、この大聖年の間にキリスト者が、身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざについてじっくりと考えてくださることです。・・・  
身体的な慈善のわざをあらためて見てみましょう。飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること、これです。  
さらに、精神的(spiritual)な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること、これです。」(15項より)  

この教えは仏教の「布施」という教えを思い出します。非常に参考になる教えです。互いに相通じる教えではないでしょうか。  
この機会に、「施し」ということをしっかりと受けと止めたいものです。