いつくしみの特別聖年「いつくしみの扉を開く式」と待降節第三主日の説教

    image_pdfimage_print

    2015年12月13日 東京カテドラルにて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    わたしたちは本日、「いつくしみの特別聖年・いつくしみの扉を開く式」を行い、東京カテドラルの聖なる扉を開き、扉を通って、聖マリア大聖堂に入堂いたしました。

    主イエス・キリストは、「わたしたちが天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう教え」(教皇フランシスコ「いつくしみの特別聖年のための祈り」)ています。

    この特別聖年の趣旨を示す中心となる言葉は「いつくしみ」です。この一年が、神のいつくしみをより深く知る年となるように祈りましょう。

    神のいつくしみは主イエス・キリストのうちに余すところなく示されています。福音書を通して伝えられているイエスの生涯をより深く悟ることができますよう、聖霊の導きを願って祈りましょう。

    神はイエスを通してゆるしといつくしみをあらわし伝えてくださいました。わたしたちは罪深くまた弱い者ですが、どうかわたしたちを主イエスのいつくしみのしるし、道具としてくださるよう祈りましょう。

    わたしたちが、「無知と過ちの闇の中で歩む人々を、心から思いやることができますように。出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。」(教皇フランシスコ「いつくしみの特別聖年のための祈り」より)

     

    待降節第三主日は昔から、「喜びの主日」と呼ばれています。第二朗読でパウロは言います。

    「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4・4-6)

    「思い煩うのはやめなさい」と言われても実行は難しいと感じます。わたしたちの日々には心配事があるのが普通です。

    それではどうしたらよいでしょか。

    そのためにはまず自分の罪を悔い改めて「清い心」を持つことが必要だと思います。「清い心」ということが主において喜ぶために必要です。特別聖年にあたり、ゆるしの秘跡を受け、ご聖体をいただき、清い心になって、イエスとの深い一致の恵みをいただくようにいたしましょう。

    さらにまた、主イエスを迎えるためには、日々の行いで主のいつくしみを実行しなければなりません。洗礼者ヨハネは徴税人にむかっては、「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士には、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言いました。わたしたちの場合はどうすればいいのでしょうか。

    人はまずなすべきことを行い、してはならないことはしないようにしなければなりません。そして、さらに日々「主のいつくしみ」を実行する人でなければならないでしょう。

    ヨハネは
    「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕*を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3・16d~17) と言われました。
    (*「箕」とは、「穀物を中に入れ、上下に振り動かした勢いで、ちり・殻などを吹き飛ばすようにして取り除く農具(新明解国語辞典)」です。)

     

    このイエスによる裁きの時に、もみ殻として火に投げ入れられるというような目に合わないように、日々の生活を整えなければなりません。わたしたちは生涯の終わりに、自分の愛について裁かれるのです。

    此の点について教皇フランシスコの次の言葉が心に響きます。

    「この特別聖年に、わたしは精神的、身体的な慈善のわざの豊かさを再発見するよう教会に求めています。イエスご自身が教えておられるように、いつくしみの体験は、具体的なしるしのあかしのうちに目に見えるものとなります。一人の信者がそれらの行いの中の一つ以上を自ら果たすなら、その人はその都度、聖年の免償を必ず受けるでしょう。したがって、あわれみをもって生きるよう努めましょう。」(教皇フランシスコ「『いつくしみの特別聖年』に際して与えられる特別免償に関する書簡」より)