いつくしみの特別聖年を迎えるにあたって

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    2015年11月29日

    東京大司教  ペトロ 岡田 武夫

      

    2015年12月8日から始まる『いつくしみの特別聖年』を迎えるにあたり、東京教区の皆さんにお願いと励ましの手紙を送ります。

     

    わたしたちはこの特別聖年の意義を大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』(2015年4月11日、神のいつくしみの主日前晩)から学ぶことができます。

    人となった神、イエス・キリストにおいて神のいつくしみは余すところなく示されました。御子を見る者は御父を見るのです。イエス・キリストを見る者は、いつくしみ深い神を見ます。

    教皇フランシスコはわたしたちが主イエスを通して現れた神のいつくしみをより深く悟り、喜びのうちに神のいつくしみを人々に伝え表すよう、わたしたちに呼びかけています。

     

    神のいつくしみは、わたしたち罪人の罪をゆるし、傷と痛み、病をいやし、わたしたちを清めいかし、聖である神の懐へと導きます。

    神のいつくしみをより深く知るためには、よく祈り、聖書をより深く味わい、また聖体などの秘跡に心を込めて与らなければなりません。

    神のいつくしみはまず、有名な放蕩息子の話にあるように、何より罪人を受け入れゆるす神の愛として示されています。父のもとに戻った放蕩息子を、父はいつくしんで喜びのうちに迎え入れます。

     

    確かに神はわたしたちの罪をゆるします。そして、罪のゆるしを受けた者は、その償いを果たすことになります。とは言え、わたしたちの内には罪への傾きと執着が残っております。わたしたちは自分自身の中に不一致と分裂があることを知り、また、霊と肉の葛藤に悩むこともあります。

     

    パウロが言うように、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。それに対して肉の業は、聖霊の働きに逆らう状態であり、わいせつ、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、仲間争い、ねたみ、泥酔などです。(ガラテヤ5・19-23参照)ですからわたしたちは罪のゆるしを受けてからも肉の業とたたかい、自分の罪を償い、自分を清めるよう求められています。

     

    初代教会においては長期間にわたる償いが課せられましたが、やがて、祈り、善行、断食、施し、教会訪問などによって償いを代替するようになりました。

    このたびの特別聖年に際して教皇フランシスコは9月1日の書簡(注1)において「免償」(注2)について語っています。

    教皇の意図は、「免償」を通して人が神のいつくしみに触れる機会を持つように、という点にあります。具体的な償いと清めの業と行うことにより、わたしたちは神のいつくしみに与り、さらに神のいつくしみの業を人々のために行う人となるのです。

     

    この恵みに与るために例えば次のような清めと償いの行いが勧められます。

    1)指定され聖堂を訪問(注3)して所定のお祈りをし(教皇による特別聖年の祈り)、信仰宣言を唱える。

    2)司祭からゆるしの秘跡を受けまた聖体拝領をする。

    3)聖書を通して神のいつくしみを深く黙想する。

    4)神のいつくしみにかなった行いを実行する。

     

    教皇は、神のいつくしみを表し伝える行いは、それが霊的なもの(祈りなど)であれ、具体的な行為であれ、それぞれが、そのたびに「免償」を得る機会となる、と言っています。

    教皇は、病気、老齢、そのほかの理由で教会訪問ができない人々や、刑務所にいる囚人にも神のいつくしみを受けることができる道を示しています。

    また胎児の生命を犠牲にせざるを得なかった人々に対しても、神のいつくしみを説き、ゆるしの秘跡を受けるよう励ましています。

     

    (1)カトリック中央協議会のホーム・ページで全文を読むことができます。
    (2)「免償」とは、教会が定めた条件のもとに償いの効果をもたらす罰を免除することです。罰とは、罪そのものが必然的にもたらす、人を苦しめる悪の結果です。回心による償いの業は、人をその苦しみから解放します。(『カトリック教会の教え』220-221ページ参照)
    (3)指定聖堂は東京カテドラル聖マリア大聖堂、築地教会、神田教会、麹町教会、八王子教会、西千葉教会です。これらの聖堂を指定したのは、東京教区の歴史を振り返っていただきたいという思いからです。