高円寺教会 堅信式ミサ説教

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    2015年7月5日 年間第14主日 高円寺教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日は堅信式が行われます。今読まれました福音のことばから「このように、人々はイエスにつまずいた」、という箇所を選んで一緒に味わってみたいと思います。  
    人々はイエスにつまずいた、イエスを受け入れることができなかった、イエスを信じることはできなかった、とマルコの福音は告げています。  
    ナザレのイエスと言われるように、イエスはナザレという所で成長しました。父はヨセフ、母はマリアであります。おそらく、30歳を過ぎる頃まで、イエスは家族と一緒に静かな穏やかな日々を過ごしていたのでありましょう。ヨセフは大工でしたので、おそらく父から大工の仕事を学んだと思われます。 
    去年、バチカンに行く用事がありまして、あの聖ペトロ大聖堂の裏側にある小さな丘の壁にレリーフ(浮彫の彫刻)を見つけました。イエスの生涯をいくつかの場面に分けて彫刻にしています。その中に、少年イエスがヨセフの仕事を手伝っているという場面があるのです。 
    それはともかく、ナザレでイエスはヨセフの保護のもとに母マリアと共に過ごした。  
    それはともかく、本当に静かで穏やかな、平凡な日々が続いた。その間、イエスは何を思い、考えていたのでしょうか。会堂に通って、礼拝に参加し、聖書の勉強もしたことでしょう。ヨセフはいつか亡くなって、そして、母マリアと二人になった。あるいは、その後も他の家族と一緒に暮らしていたのかもしれません。 
    ある日、イエスは家を出て行きます。イエスの心の中に何が起こっていたのか。いろいろな思いがいわば熟成されたと言うのでしょうか、あるいは、紡ぎ出されたと言うのか、ある限界点に達したのでしょうか。母から分かれて、家族を離れて、神の国の福音を宣べ伝える旅に出たのです。 
    その時に、ナザレの人々、特に身内の人たちはこのイエスの言動をどう思っていたのか、どう受け止めたのか。そのへんのことが、今日の福音から伺うことができるのではないでしょうか。  
    同じマルコの福音に次のような記述があります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(ママコ3・21)。 
    「取り押さえ」という言葉は、日本語では穏やかでない言葉であります。気がふれたというか、変になったしまったと思われ、身内の人の中にもそう思った人がいたのでありましょう。あるいは、更にひどい表現もある。「彼は汚れた霊に取りつかれている」(マコ3:30)。「汚れた霊」つまり悪霊に取りつかれた言う人もいた。  
    そういう状況で、イエスは故郷のナザレの会堂でお話ししました。人々は、イエスのことば、そしてイエスの言動、奇跡を行う、癒しを行うという言動を非常に驚いていた。  
    驚いたが、イエスを信じることができなかった。ナザレの人々はイエスにつまずき、イエスを受け入れることができなかった。「なんと、この男はわたしたちが良く知っているマリアの息子ではないか。大工をしているではないか。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、姉妹たちはわたしたちと一緒にここに住んでいるではないか」。そのような、イエスの人間としての要素を良く知っているが故に、このナザレのイエスという男に神の力が働いているということを認めることができなかったのであります。 
    ナザレのイエスは、学者というわけでなく、祭司というわけでもありませんでした。大工に過ぎなかった。そのような人が権威をもって神の教えを語るということは、受け入れがたく、とんでもないことだと人々には思われていたのであります。  
    さて、もしわたしたちが2千年前にナザレに住んでいたとしたら、どのような態度をとったことでありましょうか。おそらく、イエスを神から遣わされた者として、彼をメシアとして認めることはできなかったことでありましょう。
    ところで、今日、堅信式が行われます。堅信を受ける方はもちろん、ここにつどっているわたしたちは、イエスをキリストと信じ、救い主として信じています。 
    イエスを見ないで、生前のイエスに出会ったことがないがイエスを信じている。むしろ、イエスに出会ったことがないから信じることができているのかもしれないと思います。 
    わたしたちの信仰は、場合にもよりますが、多くの場合、既にキリストを信じている人の信仰で出会い、その影響を受け、その人たちの信仰にならって同じ信仰を与るようになったのではないでしょうか。2千年の間に次々と続いている信じる者が、次の人々に自分の信仰を伝えるという信仰の連鎖と言いましょうか、鎖のような繋がりができているのであります。  
    イエスを最初に信じたイエス様の弟子たちがいた。これらの弟子たちは、様々な動揺とかあるいはつまずきの後、聖霊降臨の時に彼らはしっかりと信仰を確立することができた。イエスの十字架刑そして死去、復活、その後の昇天、聖霊降臨という出来事の中で、イエス様の弟子たちはイエス・キリストへの信仰をしっかりと確立し、そして、次の世代の人々に伝えることができるようになったのであります。 
    堅信の秘跡というのは、この弟子たちの体験、聖霊降臨の体験を今ここで伝える秘跡であります。聖霊降臨の恵みに与らせる、賜物に与らせる秘跡であります。  
    イエス・キリストを信じるということは、今日でも決して易しいことではない。今の世界の状況の中で、神様がいらっしゃるということを、神様がイエス・キリストをお遣わしになったこと、イエス・キリストは復活しいつもわたしたちと共にいてくださる、わたしたちを導き励まし力づけてくださる、そういう信仰を持つことは大変すばらしいことであると思います。それは、決して易しいことではない。信仰を難しくする様々な事実、出来事があるのであります。 
    それでも、皆さんはイエス・キリストを信じる。なんと素晴らしいことでしょう。  
    今日はその信仰を更に確かめ、強くしていただくために、皆さんはここに来られました。司教の祈り、按手、塗油をとおして皆さんは聖霊の7つの賜物をお受けになるのであります。それは「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心。」この7つの賜物をお受けになるのであります。  
    自分は弱い人間だし、また罪も犯す、そういう人間にイエス・キリストを宣べ伝えるという、そのようなつとめを果たすことはできるかどうか、という思いがあるかもしれません。 
    堅信というのは、信仰を強くしてもらうと共に、自分の信仰を宣べ伝える、証しする役割、務めを授ける秘跡であります。皆さんは、自分の信仰を人々に伝えなければならない。そんなことできるかなあと思われるかもしれませんが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)とイエスは言ってくださいました。  
    一人ではできないかもしれない。一緒にお祈りし力を合わせて、イエス・キリストを宣べ伝える、イエス・キリストの弟子を作るようにいたしましょう。 
    最後に今日の第二朗読についても話します。パウロという人は異邦人の使徒となりました。大変強い人だった。彼はいかなる困難もものともしなかった。 
    しかし、何か難しい問題を持っていた。それが「とげ」と言われています。そのとげを取り去ってくださいと3度もお願いしたが、叶えてもらえなかった。「わたしの恵みはあなたに十分である」。神の恵みは人間の弱さの内に働くと言っております。 
    パウロにならい、わたしたちも勇気をもって、いただいた使命を果たすようにしたいと思います。