パウロ家族創立100周年記念ミサ説教

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    2014年8月24日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    「パウロ家族創立百周年記念ミサ」で第二朗読として、数あるパウロの手紙のなかより選ばれた箇所はガラテヤ書であります。わたしは、本日は、今日の第二朗読の冒頭の箇所に注目したいと思います。

    「兄弟たち、わたしははっきり言います。わたしが告げ知らせる福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。」(ガラテヤ1・11-13)

    実にパウロは神の教会を徹底的に迫害するものでありました。その行動は半端なものではなかったのです。しかし、パウロが迫害していた相手は、実はイエス自身でした。 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9・4、22・7,26・14)という声をパウロは聞いたのでした。この体験によりサウルは回心した「パウロ」なり、イエスを救い主として異邦人へ宣べ伝える異邦人の使徒とされたのでした。このときイエスはサウルについて言われました。

    「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒9・15-16)

    実際、使徒パウロの体験した労苦は実に、筆舌に尽くし難いものでした。(二コリント11・23-28参照) この労苦のリストの最後に「その上に、日々わたしに迫る厄介な事、あらゆる教会についての心配事があります」(二コリント11・28)と述べています。本当に真に迫る表現です。

    パウロをこれほどまでに宣教に駆り立てた動機とは何であったのでしょうか。それは、パウロの自己理解、すなわち自分はキリスト・イエスから派遣された使徒である、という強い自覚であったと思います。

    彼は明言します。「わたしが告げ知らせる福音は、人から受けたのではなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤ1・11-12参照、なおローマ1・1、一コリント1・1、ニコリント1・1もあわせて参照)

    ガラテヤ書の冒頭ではさらに明白に述べています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1・1)と述べているのです。 パウロは、自分はキリストと父である神から遣わされているという強い意識を持っていたのです。

    そしてこの自己の召命の理解の背景には、キリストの愛の体験があります。パウロは同じ二コリント書で言っています。「キリストの愛がわたしを駆り立てているからです。」(二コリント5・14)

    この言葉の裏には、パウロ自身の罪の赦しの体験があると思います。キリストはすべての罪人を救うためにこの世にこられたのであり、自分は罪人の最たるものである、という自覚をパウロは持っていました。(一テモテ1・15参照)

    パウロは、イエスの十字架により罪の贖いを信じ、この信仰を宣べ伝えるためにあらゆる辛苦をものともせずに宣教し、ローマ郊外で斬首の刑を受けて殉教しました。キリスト教徒を迫害した激しさはキリストのために命をささげる激しさに転換させられたのでした。

    わたしたちは果たしてこのような強い確信と使命感をもっているでしょうか。聖パウロに与えた宣教の熱意と同じ熱意を、どうか2014年の日本の教会にお与えください。この祈りはわたしたちの心からの祈りであります。

     

    さて本日の第一朗読の中に次のような1節があります。

    「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」(イザヤ49・6) 

    これは主の僕に言われた言葉です。いま主なる神は極東の小さな群れ、主の群れに向かって何を言ってくれるでしょうか。

    キリシタンの時代、教会は国家権力から禁圧されていました。今そういうことはありません。では今の問題、障害は何でしょうか。

    現代の荒れ野において多くの人が生きる意欲を失い、生きる希望が見えない状態に置かれています。何がそうさせているのでしょうか。もしかしてこれには、わたしたち自身が造りだしている、という部分もあるのではないでしょうか。わたしたちがいわば「加担している」という部分があるのではないでしょうか。 わたしたちの戦いは血肉を相手にするものではなく、暗闇の世界の支配者、悪の力に対するものです。(エフェソ6・12) この世には悪の力が浸透しています。悪はわたしたちの中にも入り込んでいるのです。

    今日の福音で主イエスは言われました。

    「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10・22)

    悪との戦いに倦んではいけないのです。キリストの言葉に信頼し、忍耐と希望をもち、忍耐と希望を持って歩みましょう。

    どうか主よ、わたしたちを悪からお守りください。アーメン。