教区の歴史

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平和旬間2014 カテドラル「平和を願うミサ」説教

2014年08月09日

2014年8月9日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

皆さん、今年の平和旬間の主題も、主イエスの教え「平和を実現する人は幸い」ですが、副題として「東アジアの兄弟姉妹とともに」を選びました。平和は日々の課題ですが、とくに平和旬間にあたり、平和を祈り、平和を学び、平和のための働きを実行したいと思います。

1945年8月15日に終結した第二次世界大戦では数知れない多くの人がいのちを奪われました。戦争ほど愚かで悲惨なことはありません。平和旬間は、日本の伝統行事「お盆」と重なります。今日のミサでは戦争の犠牲になったすべての方々の追悼を行います。わたしたちの家族、先祖、親戚、知人、隣人のなかには戦争の犠牲者がいると思います。今日はその方々の永久の安息のためにお祈りいたしましょう。

そして今日は是非皆さんに思い起こしていただきたい出来事について話します。

今から28年前、1986年、この東京カテドラルで、当時の司教協議会会長、白柳誠一大司教がアジア司教協議会のために参集したアジアの司教たちの前で行った戦争責任告白です。大司教は次のように述べました。

「わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を越える人々の死に責任を持っています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します。

わたしたちは、このミサにおいて、アジア・太平洋地域におけるすべての戦争犠牲者の方々の平安を心から祈り、日本が再び同じ過ちを犯さないだけでなく、アジアにおける真の人間解放と平和に貢献するよう、教会としての責任を果たす決意を新たにします。」(『戦争から何を学ぶか』新世社、より)

平和はわたしたちの祈りと努力にかかっています。平和の実現のためには神の言葉を聞き守り、それを実行しなければなりません。イザヤ預言者は言っています。

「わたしの戒めに耳を傾けるなら、
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。」(イザヤ48・18)

主イエスは平和の主、イエスによらなければ平和はあり得ません。「実にキリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2・14)

平和を妨げるもの、それは「敵意」という隔ての壁です。敵意は人と人、民族と民族の間にある隔ての壁です。イエスは十字架によってこの隔ての壁を打ち砕いてくださいました。わたしたちも十字架による平和へと招かれています。イエスが十字架にかかってくださったのですからわたしたちも痛みを負わなければなりません。何の痛みもなしに平和のために働くとは虫のいい話でしょう。ささやかであっても各自が平和のために自分の痛みをささげるように致しましょう。