関町教会堅信式

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    2014年7月13日 年間第15主日 関町教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日の福音は「種まきのたとえ」です。種とは神の御言葉、まく人はキリストです。(本日のアレルヤ唱参照)

    神の御言葉という種はいろいろな場所にまかれます。いろいろな場所とは御言葉を聞く人の心の状態を指しています。心の状態は、「道端」、「石地」、「茨」、「良い土地」というように表現されています。

    良い土地とは「御言葉を聞いて悟る人」(マタイ13・23)のことです。このような人の心はどんな心でしょうか。

    わたくしは、そのような人とは「求める心」を持っている人だと思います。何を求める心かと言えば、その心が、神への思い、神の言葉への飢え渇きを持っている人です。そのような人は、乾いた土地が水を吸い込むように、神の言葉をしっかりと受け止め味わい生かします。聞く耳のない人には神の言葉も響きません。

    しかし本来人間は神に向けてつくられていますので、神の言葉へ心を開く可能性を持っています。その可能性が妨げにあって現実化していないとしても、何時か妨げが解けて、可能性が実現し開花する時が来ます。

    どんな時に、でしょうか。ある人は病気になり、何もすることのできない徒然にふと聖人伝や聖書の神の言葉に心を向けます。

    人生において願望を成就するためには、まず願望することが必要ですが、並みの願望ではだめで、寝てもさめても必死で自分の願望を思い、思い抜き、そのために全力で努力することが必要だ、とある成功した経営者が言っていますが、なるほど、そうなのでしょう。わたしたちの信仰の世界でも、めげずひるまずひたすら願い求めなければなりないのです。

    イエスは言われました。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(中略) 天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11・9-13)

    問題は、このような「求める心」、ひたすら神のみこころを求める心、強くひたすらなる心をわたしたちは持っているのか、ということです。何かに心がとらわれていては、神を求める心が育ちません。

    「断捨離」という言葉があります。生活の上での整理整頓のための心がけをのべる簡潔な漢字の表現です。「断捨離」の「断」とは「断つ」ということ、「捨」はすてる、「離」は離す、と言う意味です。これはわたしたちの信仰生活にも当てはめることができると思います。

    わたしたちの心は絶えずいろいろの物にとらわれ揺れ動いています。自分の心を「断捨離」して整理することが必要ではないでしょうか。

    ところで他方、わたしたちは、まったく知らないものは求める気持ちになりません。ある程度知っている、良いこと、すばらしいことに憧れ、それを慕い求めるのです。

    堅信において授けられる聖霊の賜物とは何でしょうか。イザヤ書11章では「主の霊」について次のように述べられています。

    「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち

    その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」(イザヤ11・1-3)

    この7つの賜物の中でわたくしは特に「勇気」の霊を思います。これは、主イエスに倣って歩む時にわたしたちは苦難を受け、人に憎まれ、退けられることがあります。そのときに「勇気」が必要です。

    今日堅信を受ける皆さんが、困難に出会っても、勇気をもって人生を生き抜き、神の国の完成へ前進することができるよう、ご一緒にお祈りましょう。