受難の主日(枝の主日)説教

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    2014年4月13日 東京カテドラル関口教会にて

    聖書朗読箇所

    第一朗読 イザヤ50・4-7
    第二朗読 フィリピ2・6-11
    福音朗読 マタイ27・11-54

    説教

    「ホザンナ」という群集の歓呼の声で迎えられてエルサレムに入場したイエスは、わずか4,5日後には、群衆の「十字架に付けろ」という罵声を浴びることとなりました。

    十字架の上でイエスは大声で叫びました。

    「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である(マタイ27・46)、とマタイは告げています。これは本日の答唱詩編22の冒頭の言葉のヘブライ語原文と同じ言葉です。 

    イエスの十字架の下にいた人々は固唾を呑んでイエスの最後を見守っていました。

    イエスの受けた苦しみは肉体の苦しみだけではなく、精神的な苦しみでもありました。イエスの苦しみは、弟子たちに裏切られ見捨てられる苦しみ、人々の前で辱められ、侮られる苦しみ、そしてさらに天の御父からも見捨てられる苦しみでもありました。

    イエスは、父がいつも自分の内におられ、自分が父の内にいる、と宣言していました。その父へ向かってイエスは大きな苦しみの中で父に向かって叫びます。愛する御子のこの叫びを天の父はどんな思いでお聞きになったでしょうか。

    それはきわめて「つらい」気持ちではなかったかと思われます。この「つらい」という日本語がそのときの天の父の心を表すに非常に適しているように思います。愛するひとり子を見殺しにしなければならなかった父の苦しみ、それを「神の痛み」という言葉で表現した神学者がおります。

    さて今日の福音にはピラトの妻が登場します。ピラトの妻は夫に伝言しました。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタイ27・19)

    しかしピラトは妻の助言は無視します。彼はイエスの潔白を信じていました。彼は「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マタイ27・18)のです。しかしピラトは群集の脅迫を恐れてイエスをユダヤ人に引き渡してしまいます。それは自分の保身のためでした。

    イエスの受難は、イエスにかかわった人々の弱さ、あるいは卑怯な心、自己中心の罪を暴露します。

    わたしがもしイエスの受難の場に居合わせたらどうしたでしょうか。今日はそのことを静かに考えてみたいと想います。