粕谷甲一神父追悼ミサ説教

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    2014年2月10日 芝の会事務所(品川区)

    [聖書朗読箇所]

    説教 

    使徒ヨハネ粕谷甲一神父様がなくなられてから3年になります。(2011年2月9日帰天) 今日は神父様が創立者である「芝の会」の皆さんとご一緒に追悼ミサをささげ神父様の生涯を偲びたいと存じます。

    今日のミサの朗読箇所は年間第5土曜日の箇所をそのまま当てることにしました。

    第一朗読では、ソロモンが立てた壮麗な神殿に、十戒を刻んだ二枚の石の板を収めた契約の箱が祭司たちによって安置された場面を伝えています。そのときに、雲が主の神殿を満たしました。この雲は主の栄光を現しています。旧約聖書ではしばしば神の栄光は雲によって現されました。

    今日の福音はイエスが多くの病人を癒したことを告げています。イエスの活動で非常に目立つことは、病人の癒しと悪霊の追放であります。このイエスの働きは神の栄光を現す働きであったと思います。

    イエスの弟子たちもイエスからこの権能を引き継ぎました。

    復活したイエスに世って設立され派遣されている弟子の集団である教会も基本的には同じ働きを受け継ぎました。奇跡的な「癒し」を行うことは少ないかもしれませんが,依然として、病気そのほかの悪との戦いを闘っております。

    粕谷神父様の生涯は種々の困難に遭遇している人々を支援する活動にささげられました。それは神の愛の実行であり、神に栄光を地上で表すという務めの遂行であります。

    現在の世界にも多くの困難が山積しています。またわたしたちの教会も大きな試練を受けています。

    粕谷神父様が残された「神体験について」(中央出版社、1989年)小冊子がここにあります。

    その冒頭で次にように言っています。

    この世界はドロドロした闇の支配する世界です。しかしこの世界の中で神と人の不思議な出会いの体験があります。その喜びを証するのが福音宣教であり、その源泉に生きる力を汲み取る人々の集いを「教会」と呼びます。

    しかしながら、わたくしは、時としてこのような「神との出会い」が難しいと感じます。今そのことで、わたくしは学生時代に聞いた粕谷神父様の話を今思い出しています。

    それは「わたしの神」についてでした。十字架の上でイエスは叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15・34)

    今から50年前のことですので、粕谷神父様が引用した聖書のテキストは文語訳で、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいしや」というものでした。

    粕谷神父様はこのときにイエスは人間として「わたしの神」の崩壊を経験したのだ、と言いました。イエスは地上の自分の生涯の最後において自分の神理解をすべて父である神にゆだねたのだ、と神父様は言われました。

    わたしたちは自分なりの神を念頭に浮かべます。しかし、神はわたしたちの理解を超えた存在です。このドロドロした現実の中で「神はどこにいるのか」と思うことがありますが、その時の神は「わたしの神」である「神」に過ぎないのでしょう。粕谷神父様の発言に、旧約聖書が戒める『偶像崇拝の禁止』の教えと重なり合う点を見る思いがしています。

     

    「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたの憐みに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように」。

    これはミサで司祭が唱えるお祈りですね。聖体拝領の前「主の祈り」の副文での祈りの言葉であります。

    今日もこの祈りを、心をこめて唱えたいと思います。