高円寺教会 施設耐震補強・大規模改修竣工感謝ミサ説教

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    2014年1月19日 高円寺教会

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日は年間第2主日でございます。

    第1朗読の中で、イザヤが次のように言っています。

    「わたしはあなたを国々の光とする」。(イザヤ49・6)

    この「あなた」というのは誰であるのか、今わたしたちは「あなた」を自分自身にあてはめてみたいと思います。

    「わたしたちも光とならなければならないな。」と思います。しかしながら、わたしたちは大変貧しく、また小さな存在でありまして、自分で光となることはできません。わたしたちは、「光源」光の源ではありえないのです。光を受けて、光をもらって、そしてその光で周りを照らす者とならなければならない、実際、ある程度そうなっているのであります。

    「信仰年」は昨年の11月24日に終了いたしました。「信仰年」のあいだ、どうしたらよいのかということをわたしたちは考え、祈りました。

    「救いの道具として選ばれ、地の塩、世の光として派遣されている教会共同体が現代の荒れ野において悩み苦しむ多くの人々の癒し、慰め、励まし、希望となることができますように。」

    この祈りは、東京教区で「信仰年」のあいだ唱えましょうとお願いした祈りの中の一部であります。「世の光となって」の光、それは神さまからいただく光、イエス・キリストから受ける光です。この世界には闇の部分があります。闇が世を覆っている、いや、世界ばかりでなく、わたしたち自身の中に、わたしたちの心の中に闇があると言わなければならないと思います。

    使徒パウロが今日の第2朗読で言っている言葉が心に響きます。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」(一コリント1・2)

    信仰宣言で「聖なる教会」と言いますね。「聖なる者」と「聖人」とは全く同じとは言えませんが、わたしたちはイエス・キリストを信じ、洗礼を受け、聖なる者とされたのであります。聖なる者とする働きは、聖霊によるのであります。

    今日のヨハネの福音では、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)、「聖霊によって洗礼を授ける人」(ヨハネ1・33) と言われています。

    イエス・キリストによって、わたしたちは罪のあがないを受け、聖霊を受けた者です。そういう者として日々歩んでいかなければなりません。

    そのとおりでありますが、この厳しい毎日の生活、思わしくいかない色々なことの中で、聖霊を受けた人として、周囲を照らす明るい元気な信者として生きることは、そう易しくはありません。自分自身がそうではない、そうはいかないので、だんだんうなだれてしまう感じですけども、フランシスコ教皇様のお写真を見ると、まさにそういう方であります。教皇様の写真をご覧になったと思います。あの明るいほほ笑みを見ると、そういう方、そういうふうに日々生きていらっしゃる方であると思います。

    昨年の11月24日、「信仰年」が終わった日に、教皇フランシスコは全世界の教会に向かって新しい教えを発表しました。「使徒的勧告」という種類の文書で、『福音の喜び』という題です。

    それを読みますと、「信者の中には一年中四旬節を過ごしている人、復活祭が無い人がいる、一日中葬式帰りみたいな人がいる」と言っています。

    しかし教皇様は次のようにも言っています。「わたしは知っていますよ、皆さんがどんなに厳しい難しい状況に置かれているか。この世界には大変な問題がありますね。貧困、病気、対立、抗争、紛争、もう数えたらきりがない。そうであっても、問題を充分わかっていても、イエス・キリストを信じ、キリストの復活の光を受けて生きるのが信者です。」

    そのためには、聖霊の働きを受けなければなりません。

    そのためには、わたしたちが心を神さまに向け、いつも神を求めて生きるのでなければ、聖霊の恵みを受けることはできないのであります。神さまに心を向けること、それが祈りであります。

    「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたの憐みに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように」。

    これはミサで司祭が唱えるお祈りですね。聖体拝領の前「主の祈り」の副文での祈りの言葉であります。

    今の社会を覆っている考え方と言いましょうか、経済価値が第一とされる価値観、能率が大事、激しい競争もある。そして、人のことは構っていられない、人がどうであってもまず自分のことが第一。そういう生き方にわたしたちも染まってしまう、そういう部分があることをわたしたちは認めないといけないと思います。

    このような世俗的な考え方は、イエス・キリストの福音と合いません。

    わたしたちが努力して、自分に打ち勝って、心を上に揚げて、少しでもイエス・キリストの生涯に倣って歩むことが出来ますように。周りの人を照らす光、一隅を照らす光となって歩むことができますようにいたしましょう。