着座記念ミサ説教

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    2013年9月1日 東京カテドラルにて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    関口教会の皆さん、きょうのミサにご参加くださった皆さん、

    きょうはカテドラルでわたくしの着座記念ミサをささげます。2000年9月3日、わたくしは東京大司教に就任いたしました。司教に叙階されたのは1991年9月16日であります。

    司教叙階の前には一週間の黙想をいたします。わたしは富士山のふもとにある女子修道院の山の家でひとり、聖書と教会法典を読みながら叙階準備の黙想をいたしました。

    きょうの福音を読んでそのときのことを鮮やかに思い出しました。

    「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14・12-14)

    非常に明解な教えです。しかし、この教えを実行することはやさしくはありません。そもそもわたしたちが人を食事に招くときは、多くの場合、既にお世話になっている人たち、これからお世話になるだろう人たちです。いわばその人たちへ好意を表明し、何らかのお返しを期待しているのです。しかしイエスは言われます。「お返しのできないような人を招きなさい。」

    山上の説教でイエスは教えています。

    「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・3-4)

    善行とは、隠れたことを見ている神に向かって行うものであり、相手からの見返りを期待して行うことではありません。そもそもわたしたちが持っているものはすべて主なる神からいただいたものです。

    「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」(1コリ4・7)すべての良いものは神からきます。わたしたちは、自分の行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのです。信仰とは人間の業より神の賜物によってすくわれるということをみとめることです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自分の力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2・8)

    きょうの第二朗読はわたしたちの到着するべき行き先、永遠の都について述べます。シナイ山で神が現れたときは、非常に恐ろしい風景でした。しかしわたしたちの目指す永遠の都は、「生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」です。(ヘブライ12・22-24a)

    人生は旅、信仰は旅です。旅路には案内が必要です。信仰の案内は信仰の光であり、信仰の案内人はイエス・キリストご自身です。「お返しのできない人を招きなさい」というイエスの言葉に倣いながら、永遠の都への希望に励まされてきょうも一緒に歩んでまいりましょう。

    この信仰と希望に支えられ、柔和・謙遜な僕として神に仕えることができるよう、祈りましょう。