教区の歴史

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聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教

2013年06月29日

2013年6月29日 関口教会にて

[聖書朗読箇所]

説教 

きょう6月29日は聖パトロ聖パウロの祭日です。聖パトロ聖パウロは初代教会の中心的な指導者であり、紀元60年代半ば、ネロ皇帝のときにローマで殉教しました。

今日のミサの叙唱は二人の果たした使命を次のように簡潔に要約しています。

「ペトロは使徒の頭として信仰を宣言し、イスラエルの小さな群れから初代教会を造り、パウロはキリストの神秘を説きあかし、異邦の民の使徒となりました。」

使徒パトロはこのイエス・キリストへの信仰のゆえに処刑され、殉教しました。

使徒パウロもローマで殉教しました。殉教を前にしてその心境を語っています。

「今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(ニテモテ4・8)

二人は代表的な殉教者、教会の礎となった聖人です。

殉教とは「信仰の真理、道徳を守るために生命をささげる行為」を指し、もともと殉教とは「証し」を意味し、殉教者と「信仰の証人」を意味しています。*

殉教は多くの場合、国家権力により、政治的動機で行われました。ペトロもパウロも地上の権威を否定したわけではありません。使徒たちは、唯一の神を礼拝し、神の御心をすべてに超えて第一にする、という信仰を守りました。

ペトロと使徒たちは証言しています。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません」(使徒言行録5・29)

そのようなキリスト教徒の存在がときの国家権力にとって統治の妨げであると考えられ、ローマ帝国では初代教会時代、しばしば迫害が起こりました。

しかし、キリスト教徒が増加し、社会的な勢力を増すにつれて、キリスト教は公認され、さらに国教とさえなったのです。キリスト教はローマ帝国の統治のためにかえって有用な存在と認められました。いわばキリスト教は体制を支える宗教となりました。

さらにキリスト教が繁栄するに従い、教皇や司教は地上の領主としての権力と領地を所有するようにさえなりました。

宗教教団と国家権力の関係は実に微妙であります。特定の宗教団体が国家権力を担うと、他の宗教の信者の信仰の自由、他の信条の思想の自由が危機に瀕することも起こりえます。

1549年に日本に伝えられたキリスト教は瞬く間に多くの人々に受け入れられるに至りましたが、当時の権力者にとっては、日本という国の在り方、基本構造を揺るがす危険な宗教と思われました。

さらに、当時世界に覇を唱えていたスペインやポルトガルの軍事侵略も危惧されたと言われています。

キリスト教禁教は統治者から見れば、国家・国土・国民を外国の侵略から守るための処置と考えられたと思います。

明治維新後の1873年になって、外国からの圧力を受け、やっと、キリシタン禁制の高札が撤去されるにいたりました。そして1889年、大日本帝国憲法が発布され、「安寧秩序を妨げずかつ臣民としての義務に背かない」(第28条参照)という限定付きですが、信教の自由が認められました。さらに、現行の日本国憲法ではそのような制限は外されています。(第20条第1項)

国家は個人のためにあるのであり、個人が国家のためにあるのではありません。国家に権力が与えられているのは、国民のため、とくに国民の基本的人権を擁護するためであります。

この点についてヨハネ・パウロ二世教皇の次の言葉を是非深く心に刻みたいものです。

 「現代の教会という立場から、わたしはどうして識別の欠如を嘆かずにかられましょうか。それは時々、黙認に陥り、多くのキリスト者は、全体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごしてしまいました。・・・いったいどれだけ多くのキリスト者が教会の社会教説の原則を理解し、実行しているかと問うてみる必要があります。」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元2000年の到来』36項)

わたしたちキリスト者は、国家に対して賢明な態度をとり、距離を置き、場合によっては適切で勇気ある言動を取らなければなりません。第二ヴァチカン公会議の教え、また教会の社会教説を学ぶようにいたしましょう。

聖霊がわたしたちを正しく導いてくださいますように。アーメン。

 

*「殉教」ギリシャ語のマルティリオン(martyrion) の日本語訳です。キリシタン時代はポルトガル語のままマルチリヨと呼んでいました。殉教して信仰の証人となった人が殉教者(ギリシャ語でmartys、英語ではmartre)です。 2013年6月29日 関口教会にて