教区の歴史

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「東京カリタスの家」賛助会のためのミサ説教

2013年06月19日

2013年6月19日 本郷教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

わたしたちは今日、本郷教会に集まり、「東京カリタスの家」賛助会の総会を開催いたします。

総会に先立ち、ミサをささげ、神様の恵みを願い、神様の導きをお祈りいたしましょう。

いま読まれました今日の第一朗読と福音朗読は、東京カリタスの家の賛助会の総会のためにはまことにふさわしい箇所であります。

第一朗読で使徒パウロは言っています。

「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(ニコリント9・7)

本当にそのようでありたいものです。わたしたちは喜んで献金し、あるいは寄付をし、また喜んでお手伝いをしたいものです。いやいや仕方がなく、ではなく、心に決めて喜んでささげるようでありたいと思います。

今日の福音でイエスは言われました。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(6・3)

どういう意味でしょう?それは、人が寄付をし、あるいは誰かのために何かよいことをする場合、ほかの人に知られないようにするだけでなく、自分にさえもそれと意識しないように、ということではないでしょうか。

人は他人からしてもらったことより自分がした善行のことをよく覚えており、「してやった」と意識し、いつまでも記憶していて、見返りを期待したりしてしまいます。自分のしたよい行いも忘れるほど、人に隠れて行う自然な行いが尊い、と思います。

イエスは「偽善者たちは人からほめられようとして施しをする」と言ってその動機を非難しています。この場合、施しは困っている人への愛のためではなく、自分の評判をよくするために行われているのです。それは見栄であり虚栄のためです。わたしたちはどんな動機で寄付あるいは献金をしているでしょうか?

人間には誰にも「人の評価を気にする」という、まことに避けがたい、抜きがたい、心の傾きがあります。誰でも自分の働きを褒めてもらいたいと願っています。その思いが偽善や見栄となりませんよう、祈りましょう。

主イエスは十字架上の死に至るほどに自分をむなしくされました。そのイエスに倣って生きるということはどんなに難しいことでしょうか!

正直に言えば、わたくしも、人の評価に心を乱している自分自身に気がつくのです。

いつも清清しい心で神へのまことのささげものをささげることができますように、自分をむなしくして「カリタス」*即ち愛の業を行うことが出来ますよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 

※ 「カリタス」とはラテン語で神の愛を意味します。英語ではcharityにあたります。