受難の主日説教

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    2013年3月24日 関口教会にて

     

    第一朗読 イザヤ50・4-7

    第二朗読 フィリピ2・6-11

    福音朗読 ルカ23・1-49

     

    (福音本文引用はルカ23・34-47)

     「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

    そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

    既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。

    「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

    こう言って息を引き取られた。

    百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

     

    わたしたちが信じるナザレのイエスとはどんな人でしょうか?

    ある人がどんな人であるのかを知るためには、その人がどのような最後を迎えたのかを知ることが大切だと思います。イエスの受難と死は「イエスが誰であったのか」をわたしたちに語ります。

    イエスは敵への愛を説きました。これは非常に実行困難と思われる教えです。教えた人が実行しなければその教えは説得力を欠きます。しかし、イエスは十字架の上でこの教えを実行したのです。イエスは自分を処刑する人のために祈って言いました。

    「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)

    イエスはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか?

    イエスは自分を神に等しいものとしたために冒涜の罪に問われました。彼は嘲られ侮られ貶められ笑い者にされ、見るも惨めな状態で人生の最後を迎えました。人々はイエスを愚弄し、囃し立てました。

    「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23・35)

    しかし、イエスは自分のために自分の力を使いませんでした。神の子として栄光は完全に隠されたままでした。多くの人を癒し奇跡を行い、多くの人にメシアの栄光を現したイエスですが、十字架の上でその力を行使することはなかったのです。

    パウロは言っています。

    「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2・6-7)

    イエスの死の様子を一部始終目撃していた異邦人の百人隊長は非常に強く心を打たれて、言いました。

    「本当に、この人は正しい人だった。」(ルカ23・47) 平行箇所のマタイの福音、マルコの福音では「本当に、この人は神の子だった」とあります。(マタイ27・54、マルコ15・39)、

    わたしたちの宗教はこのような最後を遂げた方を開祖とし、救い主として仰いでいます。それならわたしたちはどのようにイエスの教えを実行しているでしょうか?

    自分を理解しないもの、自分を排斥し、自分に敵対する者のために祈っているでしょうか?

    些細な侮辱、失礼な言動に対して自分はどんな態度をとっているでしょうか?忍耐しているでしょうか?

    聖週間の始まる今日、そして新しい教皇フランシスコを迎えた最初の聖週間、主イエスに倣う謙虚で忍耐強い教会の姿を人々に示すことができますよう、祈りましょう。