ルドヴィコ茨木祭ミサ説教

    image_pdfimage_print

    2013年2月3日 豊田教会にて

     

    第一朗読 知恵の書3・1-9

    第二朗読 ガラテヤ2・19-20

    福音朗読 マタイ28・16-20

     

    (福音本文)

    さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

    イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

     

    豊田教会は聖ルドヴィコ茨木にささげられた教会です。ルドヴィコ茨木は日本26聖人殉教者の一人で、26聖人のなかで最年少でした。1597年、パウロ三木など25人と共に、長崎の西坂で磔にされて殉教しました。ルドヴィコ茨木は11歳ないし12歳であったと思われます。

    彼は26聖人の中の二人の信徒、烏丸レオンと茨木パウロの甥で、殉教の数ヶ月前に京都のフランシスコ会の教会で洗礼を受けました。長崎へ連行される途中、唐津で背教の勧めに打ち勝ち、いつも喜びを示して皆を驚かせた、と記されています。*

    長崎の西坂で槍を受けて殉教したときには「天国(ハライソ)、天国(ハライソ)」と言いながら目を天に向けながら息絶えた、と伝えられています。**

    12歳の少年が喜んで命を神にささげることができたとは何とすばらしいことでしょう!

    信仰は教会の交わりの中で育てられ強められます。ルドヴィコ茨木は同じ26聖人殉教者のひとりである、烏丸レオンの指導を受けて入信したとのことです。

    1545年、聖フランシスコ・ザビエルによって始めて日本に福音が伝えられました。それは復活した主イエスの宣教命令に従って極東の国、日本へキリスト教を伝えた福音宣教者の宣教の熱意の実りでした。

    イエスは使徒たちに言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・17-20)

    さて、教皇様は昨年の10月11日より今年の11月24日までを『信仰年』とされました。わたくしは昨年9月30日に「『信仰年』を迎えるにあたり」という書簡を皆さんに送り、信仰年にあたり5か条の課題に取り組んでくださるよう、お願いいたしました。

    現代は信仰の危機に時代といわれています。12歳の少年ルドビコ茨木は416年前に立派な殉教を遂げました。同じ日本にわたしたちは生きていますが状況はまったく異なっています。もはや国家権力による迫害はありません。

    わたしたちの信仰を脅かすものは、外にある悪の勢力ではなくて、むしろわたしたち自身の中にある問題ではないでしょうか?

    今わたしたちは経済不況のなかにおり、政府は景気回復の政策に着手していますが、400年前とくらべれば、考えられないほど便利で快適な生活をしています。だからといって幸福で生きがいのある生活をしているわけではありません。

    老若男女、皆ストレスという問題を抱えています。ストレスを解消するようにとわたしたちに働きかける誘惑はこの世の中に充満しています。この社会は、非常に世俗化のすすんだ社会であり、同時に管理と競争の原理が支配している社会です。

    永遠の世界、この世を超えた存在への畏敬の念が著しく衰退しています。非常に危険な状態にわたしたち信仰者は置かれているといえましょう。

    使徒ヨハネは言っています。

    「世も世にあるものも、愛してはいけません。・・・なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2・15-17)

    「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(1ヨハネ5・4)

    第二ヴァチカン公会議は社会に開かれた教会の姿を示しましたが、同時に、世にあって復活のキリストの姿を現し伝える教会の使命を示しています。そのためには絶えずよく祈り、信仰を深めていかなければなりません。信仰は教会の交わりの中で育てられ教会の交わりを通して伝えられます。

    わたしたちは、いまの世俗化のなかで、社会と適切な距離を置きながら、世俗化の波に押し流されないよう、毅然として信仰の証を立てなければなりません。そのような強い信仰を聖ルドヴィコ茨木の取次ぎによって祈りましょう。

     

    以下、『新カトリック大事典』“茨木ルドヴィコ”より

    *少年は「たちまち滅びる短い肉体の生命と永遠の霊魂の生命とを取りかえられるわけがございませぬ」といって棄教を拒否した。(片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』p.68)

    **(片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』p.75)