教区の歴史

教区の歴史

2013年「東京教区年始の集い」ミサ説教

2013年01月14日

2013年1月14日 東京カテドラルにて

 

第一朗読 ヘブライ1・1-6

福音朗読 マルコ1・14-20

 

(福音本文)

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。

この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 

第二ヴァチカン公会議の教えに学び、その教えに従って、日本でどのように福音宣教の活動を展開して言ったらよいか、ということを話し合うために、第一回福音宣教推進全国会議NICE-1が開催されました。それは公会議開始からちょうど25年経った1987年のことで、信徒の代表も参加した画期的な会議でありました。

NICE-1は、当時の教会のすべての問題の根底には、「信仰の生活からの遊離、教会の社会からの遊離」があると分析し、この遊離を克服することが日本の教会の根本的な課題である。そのために「生活から信仰を、社会の現実から福音宣教を見直」さなければならないとし、NICEの課題を「開かれた教会づくり」としたのでした。

そして、ではどのように見直すのかといえば、わたしたちの生活と社会の現実を福音の光、信仰の光で照らし見直すということでした。

現実を福音に福音の光、信仰の光で照らすとはどういうことでしょうか?25年を振り返ると、この点が大きな課題となっていると感じます。

わたしたちの生活と教会はこの世界の現実に、深く強く結び付けられています。世俗化が著しく進んだ社会の中でわたしたちは生活しているのです。

この現実の中をどのようにして信仰の光で照らすことができるのでしょうか?

わたしたちはしっかりと経済価値優先の社会の在り方に組み込まれています。消費、管理の社会、利益、能率、便利さ、快適さ、経済価値を優勢する社会の只中でどうしたらイエスの福音を実行できるでしょうか?

現実を福音の光で照らすためには、現実から離脱し、現実に距離を置かなければならないと思います。

わたしたちは、この世に生きています。この世から出ることはできませんし、また、そうすべきでもありません。しかし、この世との間に距離を置かなければならないと思います。それは心を神にあげる、ということです。

ヨハネは言っています。「世も世にあるものも、愛してはいけません。・・・なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にあるも欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2・15-17)

イエスはまた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」(ヨハネ14・6)と言われました。

わたしたちは、この世にあって、世の精神に汚染されないで、イエスの福音の精神を生き抜かなければならないのです。そのためには「神の栄光の反映であり、本質の完全な現れ」でる御子イエスをいつも見つめながら、そしてイエスに祈りイエスに倣いながら歩まなければなりません。

現実から離脱し、心を上にあげ、神の声、神の呼びかけに心を向ける時間をとることがもっともっと必要です。

わたしたちはあまりにも多忙な生活に追われ、物と制度、組織に振り回されているのではないでしょうか?

「現実から出発する福音化」は「上からの福音化」、いわば「超自然の恵みによる福音化」によって保証されなければならないのです。

わたしたちが、日々上からの光、キリストの復活の光を受けて歩むことができますよう、祈りましょう。アーメン。