エルサレムのチリロ青山謙徳師納骨式ミサ説教

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    2013年1月12日(主の公現後の土曜日)府中墓地にて

     

    第一朗読 1ヨハネ5・14-21

    福音朗読 ヨハネ3・22-30

     

    (福音本文)

    その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。

    ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。

    ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。

    彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

    ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

    花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

     

    エルサレムのチリロ青山謙徳神父様は昨年11月19日、神のもとに召されました。本日わたしたちはここに、神父様の埋葬と納骨式を行います。

    青山謙徳神父様は司祭金祝記念文集『綴りかた』のなかで次のように言われました。

    「なぜ、どうして、でも信じています。この繰り返しです。十字架の玄義と言いますか、愛の深い神様がどうして私たちに十字架をお与えになるのか。

    ・・・(中略)・・・、わたしが十字架を、勇気をもって担うことができなくとも、きっとイエズスさまが捕まえていてくださると、信頼するのが現在の心境です。」 ※

    いまわたしたちは『信仰年』を過ごしています。信仰年は自分の信仰を確かめるとき、わたしたちは何を信じているのか、誰を信じているのか、なぜ信じているのか、自分の信仰を確かめ、さらに深めより確かものとし、信仰をあかしし、さらに伝える努力をするときだと思います。

    神父様の人生のいろいろな場面で、人間として、カトリック信者として、司祭として、苦しいこと難しいことにお会いになったに違いありません。

    今日の福音で洗礼者ヨハネは言っています。「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない。」(ヨハネ3・30)

    司祭のお仕事から引退された後は、カテドラル構内で、謙遜な態度で静かな祈りの生活をしながら、晩年を過ごされ、わたしたち後輩の歩みを見守ってくださいました。

    今日の第一朗読で使徒ヨハネは言っています。

    「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(1ヨハネ5・14-15)

    きょうわたしたちはこのヨハネの言葉に励まされ、神の御心に適うことを思い巡らしながら、心からの願いを神様にお献げしたいと思います。

     

    ※青山謙徳『綴りかたー司祭金祝を感謝してー』所載「愛の綱」より。