教区の歴史

教区の歴史

司祭月例集会帰天司教・司祭合同追悼ミサ

2012年11月26日

2012年11月26日 東京カテドラル関口教会にて

 

第一朗読 ローマ8・18-25

福音朗読 ヨハネ14・1-6

 

(福音本文)

〔その時、イエスは言われた。〕 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

今日は、帰天されたすべての司教、司祭のかたがたの永久の安息を願って、ご一緒にミサをおささげいたします。

なお今日までの一年間に帰天された教区司祭は次のお二人です。

パウロ 三好 満神父 2012年8月20日帰天

エルサレムのチリロ 青山謙徳神父、2012年11月19日帰天

謹んでお二人のための永久の安息をお祈りいたしましょう。

青山神父様が亡くなられからまだ一週間しかたっておりません。

青山神父様のお通夜の際、わたくしは、シャンボン大司教と青山神父様の深いつながりについてお話いたしました。

また、先日の横浜教区での記念行事の際にも、当然ですがシャンボン大司教を思い出す機会がありましたので、今回はシャンボン大司教の歩みを軸にして話をしたいと思います。

Jean Alexis Chambon(ジャン アレクシス シャンボン)大司教は第五代東京大司教でした。

1927-37年、東京大司教を務められ、37年には東京大司教を辞任し、横浜の司教になられました。しかしまもなく横浜司教も辞任され、女子修道院のチャプレンをしながら戦中・戦後の困難な時代をすごし、1948年、73歳で帰天されました。お墓は横浜の山手の外人墓地にございます。

シャンボン大司教は、1932に「靖国神社参拝拒否事件」が起こったときに大変苦慮されました。1936年、当時の布教聖省は日本の教会に向けて、この問題についての使徒座の見解を示す指針を送りました。それは『祖国に対する信者の務め』という指針です。

シャンボン大司教は日ごとに戦時色が濃くなっていく日本の社会の中で、外国から来た宗教の指導者という立場で非常に苦しまれたと思います。

一昨日の11月24日、横浜教区主催の大きな記念行事が横浜で行われ、わたくしも参加いたしました。ことしは開国後はじめて1862年に横浜に「横浜天主堂」が献堂されて150年になります。1862年の「横浜天主堂」献堂の年は日本再宣教開始の年でもあり、日本26聖人殉教者列聖の年でもありました。横浜教区は150年前のこの重要な出来事を記念し、その意味を研修し、これからの日本の福音化への決意を新たにするためにこの行事を企画し準備し実施いたしました。

わたくは1862年の横浜天主堂献堂に至るまでのパリ外国宣教会の働きを説明する明快な講演を聞きながら、さらにこの150年間の日本の教会の歩みにも思いを馳せておりました。

シャンボン大司教と青山謙徳神父様は、このような大きな歴史のうねりのなかで、司教としての務めを、司祭としての務めを忠実に果たして、天の父のもとへと帰られたのでした。

 

「信仰年」をすごしているわたしたちです。戦前・戦中の全体主義国家という問題は過ぎ去りました、いま別な困難にわたしたちは直面しています。それは一言で言えば「信仰の危機」という問題です。

パウロは今日の朗読で、すべての被造物が解放され贖われる日の到来を告げています。この教えを黙想しながら、この信仰と希望に励まされて、現代の困難を受け止めてまいりましょう。

立派に信仰を生きた殉教者、教会の先人の模範に倣い「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストの道を歩みきることができますよう、聖母の取次ぎによって祈りましょう。