北町教会堅信式説教

    image_pdfimage_print

    2012年9月9日 年間第23主日 北町教会にて

     

    第一朗読 申命記4・1-2,6-8

    第二朗読 ヤコブ1・17-18,21b-22,27

    福音朗読 マルコ7・1-8,14-15,21-23

     

    (福音本文) 

    〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

    そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

    すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

    イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

    そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

     

     

    今日は9人のかたがミサの中で堅信の秘跡をお受けになります。おりしもことしの10月11日より「信仰年」が始まります。聖霊の賜物により強く深い信仰を授けていただけるよう祈りましょう。

    いま読まれた福音は、イエスが、耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ7・34)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。

    しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口に上らせたアラマイ語が表記されています。

    イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。

    ですから、福音書がギリシャで書かれてもこの「エッファタ」はそのままもとのアラマイ語の音声の表記のまま残されました。

    イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして予言していると考えられます。

    「信仰年」を迎えるに際して、改めて、イエス・キリストとは誰であるのかが問われています。この問いはわたしたちの信仰にとって最も重要な問いです。

    主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。

    第一朗読は通常、旧約聖書から取られ、イエス・キリストの福音を理解するためにあらかじめ準備となる旧約聖書の箇所を提供します。第二朗読は当日の福音朗読との関係の中で、イエスの弟子たちが信じ受け入れたイエスの言葉と生涯の意味をわたしたちに解き明かしています。 

    人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に働きを回復させ、人間らしく生きる道を整えたのです。

    わたしたちキリストの弟子たちは、自分とは異なる文化の人、異なる言語の人、異質な世界の人、通常に交わりの手段を奪われ差別されている人々との交わりを持ち、コミュニケーションを発展させなければならないと思います。

    イエスは貧しい人、後回しにされ排斥された人、差別された人、病気の人、体の不自由な人の仲間となり、人々の痛みと苦しみを一緒に担ったのでした。

    ヤコブの手紙は、教会の中で貧しい人が差別されてはならないこと、人を偏見で見てはいけないことを強調しています。この教えはいま大きな課題としてわたしたちの中に存在しています。

     

    「信仰年」に際してまず行うべきことは、自分の信仰を確かめ、深め、そして信仰を人々に表し伝えるよう、努めることだと思います。そしてそのためには、イエス・キリストをより深く知るように務めなければなりません。

    イエスは「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ12・2)です。「創始者」という言い方より「導き手」という訳し方のほうがわかりやすいです。

    イエスをよく知るためにすぐに実行すべきは、主日の福音をよく味わうことです。それは先ほど申し上げた通りです。またそのための黙想会を企画することも有益です。

    また、開催五十周年を迎える第二ヴァチカン公会議の教えを学びことが勧められます。まず公会議開催の趣旨を確認すると共に、公会議文書を学ぶよう、努めてください。

    主日・祭日のミサで必ず唱えられる『信条』の意味を学び直すようお勧めします。この機会に、わたしたちは『信条』によって、何を、誰を、そのように信じているのか、確認し、その信仰を深めるようにいたしましょう。