教区の歴史

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カルメル修道会・三位一体修道院訪問ミサ説教

2012年08月05日

2012年8月5日 年間第18主日 深大寺・カルメル会聖堂にて

 

第一朗読 出エジプト16・2-4,12-15

第二朗読 エフェソ4・17,2-24

福音朗読 ヨハネ6・24-35

 

(福音本文) 

〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

カルメル会のシスターの皆さん、ミサにご参加の皆さん、

新しく建て替えられたカルメル会修道院を今日訪問し、皆さんとこうしてごミサをささげ、ご一緒にお祈りできますことはわたくしにとっても大きな恵みであり喜びであります。

ご存知のように、教皇ベネディクト十六世は第二ヴァチカン公会議開催五十周年を記念して、2012年10月11日より翌2013年11月24年の期間を『信仰年』と定めました。

第二ヴァチカン公会議は、それ以前の公会義と異なり、正しい教えを確定するためではなく、教会がその使命をよりよく果たすことを願ってそのために開催された公会議です。

第二ヴァチカン公会議は1965年に終了しました。終了してちょうど10年後の1975年、パウロ六世教皇は『福音宣教』Evangelii Nuntiandiという教えを発表しました。

1981 年 教皇ヨハネ・パウロ二世が日本を訪問され、1987年 日本のカトリック教会は『第一回福音宣教推進全国会議』・NICEを開催しました。

1992年『カトリック教会のカテキズム』が発行され、2003年『カトリックの教え』が刊行されました。

NICEから25周年、第二ヴァチカン公会議開催から50周年の節目の年に、わたしたちは『信仰年』を迎えます。

カトリック教会がその使命をよりよく果たすために、教会はどのように変わらなければならないかという問いかけに応えるために、第二ヴァチカン公会議は開催されました。この公会議の精神を引き継ぎ、日本のカトリック教会は、福音宣教推進全国会議(NICE)を開催し、日本における福音宣教の使命の遂行に努めてきたのでした。

おりしも2011年3月11年、東日本大震災が勃発、わたしたちはあらためて自分の信仰、生きる土台としてきた教会共同体のあり方を根底から問い直されているように感じています。

また、わたしたちが生きている社会には、家族関係や人間関係の問題、いじめ問題、原発問題、自死、経済の低迷、少子高齢化から派生する諸問題など多くの困難や苦しみ、悲しみや不正義が山積しています。実にこの日本の社会では、14年連続して、自死者が三万人を越えているのです。

このような状況でわたしたちは、どのようにして人々に生きるための励ましと希望を伝えることができるのかと問われています。このような社会の中で、カトリックの信仰を生きるとはどういうことなのか?わたしたちの信仰のあり方が、この社会から大きな挑戦を受けているのではないでしょうか。

このような状況で『信仰年』を迎えます。

ただいま読んだヨハネの福音6章では(先週の主日より5回にわたり、ヨハネの6章が取り上げられていますが)、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とあります。

「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。 』」

神の業を行うとはどういうことか?何をすればいいのか?

「律法を守りなさい」、「全身全霊をあげて神を愛しなさい」という答えが予想されますが、イエスは意外にも、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。

「神がお遣わしになった者」とはイエス自身のことです。イエスを信じることが神の業である、と言っています。

ヨハネの福音によれば、イエスを信じるものは永遠の命を与えられ、既に永遠の命へと移されています。

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」である。(ヨハネ6・40)

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ6・47)

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5・24)

イエスを信じるとは、「永遠の命」を受けることです。

ユダヤ人の多くはイエスを信じることができませんでした。彼らはイエスの人間性の中に神の働きを認めることができなかったのです。また、イエスが安息日の掟を破ったとして、そのためにイエスを冒涜の罪に問うユダヤ人もおりました。

「イエスが安息日を破るだけでなく、神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しい者とされたからである。」(ヨハネ5・18)

イエスはまた言われました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)

聖書でいう「知る」は深い意味をもっています。旧約聖書ではしばしば「主を知る」、「主を知らない」という言い方が出てきます。今日の第一朗読でも「あなたたちはこうして、わたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる」(出エジプト16・12)とあります。

「主を知る」とは、主を神として礼拝し主の言葉に従って生きる、ということです。

人間は自分の力で永遠の命へ到達することは出来ません。まことの人でありまことの神であるイエス・キリストだけが人を神のもとへ、永遠の命へと導くことができます。神と人の仲介者はイエス・キリストただ一人です。(一テモテ2・5)

イエスは言われました。「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)

このイエスの言葉を信じその招きに応えて、イエスに自己をゆだねるものは、イエスを通して父である神のもとへ達することができるのです。

きょうの第二朗読を深く味わいましょう。

「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4・22-24)*

わたしたち一人ひとりが、聖霊の導きを受け、日々新たに生まれ、人々に、困難の中で生きるために励ましと希望を指し示す人として歩むことができますよう、どうかカルメル会の皆さんのお祈りを切にお願い致します。

 

*新しい人としての生き方は同じエフェソ書の続きの箇所で次のように説明されています。

「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

悪魔にすきを与えてはなりません。

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4・25-32)

すでに地上で始まる永遠の命、それはこのエフェソ書の教えを実行する体験の中に既に存在しています。