洗礼者聖ヨハネの降誕―歴代東京大司教追悼ミサ説教―

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     2012年6月24日 築地教会にて

     

    第一朗読 イザヤ49・1-6

    第二朗読 使徒言行録13・22-26

    福音朗読 ルカ1・57-66,80

     

    (福音本文)

    さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。

    八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。

    しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。

    すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

    幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

     

    今日は洗礼者ヨハネの誕生を祝います。洗礼者ヨハネはイエスの先駆者の役割を果たしました。イエスの登場に向けて人々の心を悔い改めに導き、イエスを受け入れるよう準備することが、洗礼者ヨハネの召命でありました。

    イエスが救い主メシアとして生まれることは、既に旧約聖書で預言されておりました。

    今日の第一朗読イザヤ書は、いわゆる主の僕の召命を語っております。主の僕は、母の胎にあるときから、既に主なる神に知られていました。神は主の僕が母の胎にあるときから、主の僕に召命を授けたのであります。この主の僕は、神の力として召命を遂行いたします。

    主の僕は高らかに歌います。「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。」(イザヤ49・5)

    この主の僕の歌は、神の子イエスの召命を預言しているように読むことができます。

    きょうの答唱詩編で作者は言っております。

    「あなたはわたしのからだを造り、

      母の胎内でわたしをかたち造られた。」(詩編139・13)

    「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

      わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

      まだその一日も造られないうちから。」(詩編139・16)

     

    さて、皆さん、今日ここで、ご一緒にミサをささげておりますわたしたち一人ひとり、いったいわたしたちは何のために造られ、何のために生まれてきたのでありましょうか?

    わたしたちに生命を与えたのは主なる神であり、神はわたしたちが母の胎内にあるときからわたしたちに呼び掛けておられ、わたしたちのすべてを知っておられます。

    わたしたちの生涯の中には、さまざまな問題、さまざまな困難があります。そういう時に、「わたしは何のために生まれてきたのだろうか」と思うことがあるかもしれません。

    聖書は言っています。「わたしたちの命は神によって造られ、そして生まれる前から神はわたしたちを知っておられた。」

    「わたしの神こそ、わたしの力」と、主の僕は歌いました。わたしたちも困難なとき、悩み苦しむときに、「わたしの神こそ、わたしの力」という信仰を深めていきたいと思うのであります。

     

    先週の火曜日から金曜日まで、ここの近くの潮見の日本カトリック会館で、定例司教総会が開催されました。全国から司教が全員集まり、わたしたちのこれからの日本の使命について、福音化、福音宣教について、そして『信仰年』について話し合いました。

    ご存知のように、教皇ベネディクト16世は、第二バチカン公会議開催50年を記念し、2012年10月11日から『信仰年』が始まる、と宣言しています。

    わたしの考えによれば、信仰年の課題は、まずわたしたちが自分の信仰を確かめることだと思います。わたしたちは何を信じていますか?

    わたしたちはどのようにして神を、イエス・キリストを信じるようになりましたか?

    入信のときのわたしたちの心、わたしたちの気持ち、わたしたちがどのように信仰を理解したのかということを、確かめてみるときであります。

    さらに『信仰年』はわたしたちの信仰を、より深い、より強いものにするときであります。

    昔から「祈りの法は、信仰の法(Lex orandi, lex credendi)」と言います。わたしたちは、祈ることと信ずることとが一致していなければだめなのです。わたしたちは祈るとき、その祈っていることを信じていなければいけません。信じていないのに祈るのは偽りであります。

    そして、信じていることを祈るのであれば、例えば『主の祈り』をわたしたちは毎日祈ります。『主の祈り』でわたしたちは何を祈っているのでしょうか。何を信じて祈っているのでしょうか。

    あるいはミサの中で「信仰宣言」を唱えます。『二ケア・コンスタンティノープル』の信仰宣言、あるいは『使徒信条』を唱えます。今日もそうしますが。この唱えている言葉の内容をどういうふうに理解し、どういうふうに信じていますか?

    非常に大切なことだと思います。『信仰年』に当たり、自分が信じていることを確かめる、そして深めるようにしたいと思います。

    『主の祈り』あるいは『信仰宣言』を、もう一度学び直すことが、とても大切ではないかと思います。

     

    さらに今年は日本再宣教150周年に当たります。この150年の間、この築地教会はカテドラルとしても非常に大切な役割を果たしてきました。

    今の東京大司教区ができたのは1891年、その前は横浜教区、さいたま教区と一緒に、さらにその前、日本は2つの使徒座代理区に分かれていましたが、東京教区は日本で初めての大司教区で、最初の大司教がオズーフ大司教です。

    この築地教会は、そのような由緒ある、大切な教会であります。

     

    その名に恥じない立派な役割を、しっかりと果たしていただきたい。

    そのためにわたくしは、皆様への協力、皆様への支援を惜しまないつもりでございます。