立川教会堅信式説教(復活節第二主日)

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    2012年4月15日 復活節第二主日 立川教会にて

     

    第一朗読 使徒言行録4・32-35

    第二朗読 一ヨハネ5・1-6

    福音朗読 ヨハネ20・19-31

     

    復活したイエスが弟子たちに現れたとき、十二使徒の一人トマスは居合わせなかったので、イエスが復活した、ということを疑っていました。

    「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20・25)

    これは徹底的に疑う態度です。このときから「トマス」は、疑い深い人の代名詞となりました。

    しかし復活の八日目に再びイエスが弟子たちの間に現れたのでした。トマスは感激して「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)と叫びました。

    確かにイエスの墓は空でありましたが、イエスの復活の場面を目撃したものは誰もいないのです。

    どうして弟子たちは復活を信じたのかといえば、彼らは復活したイエスに出会ったからです。

    復活したイエスに出会う最初の人となる栄誉をうけたのはマグダラのマリアでした。それから他の弟子たちのところにイエスが現れました。

    弟子たちはイエスの復活の証人となったのです。

    教会はイエスの復活を信じる神の民であります。

    わたしたちがどのようにしてキリスト信者になったのか、と振り返ってみれば、イエスの復活を見たから信じたのではありません。復活したイエスに出会った人の証言を信じて信者になったのです。わたしたちは復活を信じた人々を信じて信者になったのです。

    東日本大震災の起こった今の世界で、神を信じるとは容易なことではありません。それでもわたしたちは神を信じ、主であるイエスを信じています。

    実はわたしたちが「見ないで信じた幸いな人」に該当しているのではないか、と思います。わたしたちはマグダラのマリアや使徒たちのように、復活したイエスに出会ったわけではありません。復活を信じた人たちの証言を信じて信者になったのです。

    わたくし自身、カトリック信者になるときに、ひとつの問題に遭遇しました。それは、迷信と信仰とはどう違うのかという問題でした。

    根拠があって信じることが信仰であり、根拠がなくて信じることが迷信です。そして神を信じ、イエスを信じるための最大の根拠・理由は、「イエスの復活」という出来事のうちにあります。復活を信じて生きた人々の証言にわたしたちは信仰の根拠を見出します。

    「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)

    これは実に大切なことです。信じるとはまさに見ないで信じる、ということです。見ているなら信じる必要はありません。誰も神を見た人はいません。イエス・キリストは、ご自分の生涯、特に死と復活によって、父である神の愛を証ししました。

    イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と言われ、十字架にかかり、十字架の上で自分を迫害する者のためにゆるしを祈りながら最期を遂げたのでした。

    この様子を目撃した人がイエスの復活を体験し、イエスがまことに神の子である、と信じたのです。

    “イエスはだれであるのか”は初めの教会の時代、大きな議論となりました。ニケアの公会議(325年)で集まった司教たちは次のように宣言しました。

    「わたしは信じます。主であるイエス・キリストを。主は神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神です。」

    信仰とは教会において一緒に学ぶことであり、深めることであり、支えあい助けあうことです。

    使徒たちは聖霊を受けて勇敢に信仰を宣言し、殉教しました。きょう堅信を受けられる皆さんは、復活の信仰を力強く宣言し、証しをしていただくために、使徒たちの受けた聖霊の恵と同じ恵を受けるのであります。

    いまは信じることが難しい時代だと言われています。

    ことし、2012年10月11日より『信仰年』が始まります。現代世界でどのようにして福音を信じ、信仰を伝えるのか、という課題はすべての信者の課題です。そのためにはぜひ第二ヴァチカン公会議の教えを学んでくださるようお願いします。