町屋教会ミサ説教(四旬節第5主日)

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    2012年3月25日 町屋教会にて

     

    第一朗読 エレミヤ31・31-34

    第二朗読 ヘブライ5・7-9

    福音朗読 ヨハネ12・20-33

     

    昨年の2011年3月20日、ちょうど東日本大震災勃発の直後、わたくしは皆さんの町屋教会を訪問いたしました。あれから一年です。大震災でなくなった方々の永久の平安のために祈り、また被災地復興のために働く方々を主なる神が支え励ましてくださるよう祈りましょう。

    きょうの第一朗読であるエレミヤ書のなかに「新しい契約」という言葉が出てきます。そこで今日この「新しい契約」という言葉を取り上げたいと思います。

    「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」

    ミサのときに司祭が唱える御血の聖別のことばです。

    「新しい永遠の契約の血」、この言葉はわたしたち日本の文化伝統には馴染みにくい表現です。

    『信仰年』を迎える準備として、きょうはこの言葉を取り上げ、その意味を学びたいと思います。

    「新しい契約の血」は旧約の契約の血に対応しています。イスラエルの民はモーセを仲介者として、シナイ山で、主なる神と契約を結びました。その契約とは「十戒で示された主の言葉をすべて守り行います」という契約でした。締結式に際してモーセは雄牛を和解のささげものとし、血の半分を祭壇の上に、あとの半分を民にふりかけました。(出エジプト24章参照)

    しかし、イスラエルの民はこの契約を守ることできませんでした。そこで預言者エレミヤが派遣され、新しい契約への希望が与えられました。

      「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31・31-33))

    シナイ山で授かった十戒は石の板に書かれていました。しかし、新しい契約の律法は民の心に記されます。外にある掟ではなく、心に記された掟となります。

    新しい契約はイエス・キリストを仲介者として結ばれました。その際流された契約の血がイエスの十字架で流された血であります。

    イエスはすべての人の救いのために、あがないのために、十字架の上で血を流されました。それは一度だけの出来事でした。ミサはこの出来事、イエスの死と復活の記念です。

    イエスは、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われました。ミサの時には、血を流すことなく、同じイエスご自身が犠牲として御父にささげられます。

    「記念する」とは、単に過去の出来事を思い出すということではなく、いまここに、イエスはここに現存され、十字架の出来事が「現在化する」ということを意味します。イエスの犠牲と十字架、復活の出来事とそのめぐみは、場所と時間を超えて、どこでも、いつでも、分かち合うことができるのです。それは聖霊の働きによるのです。

    もし今での血なまぐさい動物のいけにえをささげなければならないとしたらどうでしょうか? いま、わたしたちは、パンとぶどう酒をキリストの御体、御血としておささげすることができるのです。

    もしわたしたちが、日々のすべての行いを御聖体に合わせて天の御父におささげすれば、それは神に喜ばれる香ばしいささげものとして受けいれていただけることでしょう。

    神に嘉(よみ)される犠牲を日々ささげながら復活祭を迎える準備をいたしましょう。