教区の歴史

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カテドラル関口教会ミサ説教(四旬節第3主日)

2012年03月11日

2012年3月11日 カテドラル関口教会にて

 

第一朗読 出エジプト20・1-17

第二朗読 一コリント1・22-25

福音朗読 ヨハネ2・13-25

 

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とイエスは言われました。イエスの復活の後で弟子たちはこの言葉を思い出し、神殿とはイエスの体のことであったとわかりました。

イエスの復活はわたしたちの信仰の中心です。キリスト教徒はキリストの復活を信じる者です。この点においてキリスト教は他の一神教と異なっています。 

キリスト教はユダヤ教から分かれた宗教です。さらに、ユダヤ教とキリスト教から分かれた一神教がイスラームです。この三つの宗教は共に一神教です。同じ神を信じています。相違点はどこにあるかといえば、イエス・キリストは誰であるのかについての理解の相違にあります。ユダヤ教ではイエスは神を僭称(せんしょう・身分を越えた称号を勝手に名乗ること)した冒涜者でした。イスラームでも、イエスは偉大な預言者ではあるが、神と等しいものとは認めません。わたしたちはイエス・キリストを

「神のひとり子、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」と信仰宣言しています。(ニケア・コンスタンティノープル信仰宣言)

イエスの十字架はユダヤ人には躓きでした。偉大なる全能の神が十字架上に死という恥辱を受けるはずはない、と考えたからです。また、ギリシャ人にとっても、磔刑に処せられたナザレのイエスを救い主と仰ぐとは、限りなく愚かなことでした。

しかしパウロは宣言します。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(一コリント1・22-25)

わたしたちはこの「神の力、神の知恵」をどのように説き起こし伝えることができるでしょうか。イエスはわたしたちのために、わたしたちの罪のために、すべての人の罪のために、十字架にかかったのでした。しかし日本においては、多くの人にとって、十字架は自分には関係のないことと思っています。

人生は苦しみです。わたしは、誰にでもある体験、苦しみの意味を共にすることが、この問題、十字架に入る鍵であると思います。

大震災はわたしたちの信仰への挑戦であります。何度か7歳の少女ヘレナさんの話をいたしました。教皇様は、「それでも神様が皆さんを愛しています」といわれました。

十字架に神の愛が示されています。

十字架のイエスを見上げるときにわたしたちの信仰は深められます。

十字架の向こうには復活があります。

復活は世界全体のあがない、完成、「新しい天新しい地」と結びついています。

十字架の神秘をより深く信じることができますよう祈りましょう。