教区の歴史

教区の歴史

成田教会堅信式説教

2011年08月28日

2011年8月28日 年間第22主日 成田教会にて

 

第一朗読 エレミヤ書(エレミヤ20・7-9)

第二朗読 使徒パウロのローマの信徒への手紙(ローマ12・1-2)

福音朗読 マタイによる福音(マタイ16・21-27)

 

成田教会の皆さん、おはようございます。

昨年8月の平和旬間のとき成田教会でミサを捧げました。それ以来、一年ぶりに皆さんにお会いします。今日は、堅信式のため、また外壁工事の完了した聖堂、司祭館を祝福するために成田教会に参りました。

 

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

今日の福音の中でペトロはイエスから、このように、激しく叱責されています。ペトロにとってイエスがこれから苦しみを受けて殺されてしまうなんて、とんでもないこと、理解のできないことでした。しかもこれは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派に信仰告白した直後に起こった出来事なのです。

イエスとペトロの間にはイエスの使命についての理解に大きな隔たり、相違がありました。このときペトロの信仰はまだ、はなはだ未熟でした。ペトロは復活についても何も理解していないようです。使徒ペトロがイエスの叱責の意味を悟ったのはイエスの十字架の後でした。

主なる神は、預言者イザヤを通して言われました。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

  わたしの道はあなたたちの道と異なると

  主は言われる。」(イザヤ55・8)

神の思いと人の思いの間には天地の差ほどの違いがあります。

第一朗読で預言者エレミヤは述べています。

「主の言葉のゆえに、わたしは一日中

  恥とそしりを受けなければなりません。」(エレミヤ20・8)

エレミヤは、人々が到底受け入れない、厳しい言葉を、主の名によって語らなければなりませんでした。その主の言葉は人々の思いとはかけ離れていました。そのためにエレミヤは大いに苦しみました。

もしかしてわたしたちも、自分の思い、考えが「当然である、正しい、妥当である」と決め付けていないでしょうか?自分に見える世界が絶対だ、と思っていないでしょうか?

人間は自分で判断し決断する能力を与えられています。この能力のおかげで人間は人格として人間の尊厳を保っています。しかし同時にわたしたちは自分の判断を神の判断に従わせなければなりません。神のなさること、言われることには、理解できないこと、受け入れがたいことがあります。しかし、自分の判断を神にゆだねて生きること、それが信仰ではないでしょうか。

イエスは言われました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)

自分を捨ててキリストに従うということは、自分の理解、意思、思い、自分のすべてをキリストにゆだねることです。

第26回ワールドユースデーが8月16日から21日までスペインの首都マドリードで開催されました。テーマは「イエス・キリストに根を下ろして造り上げられ、信仰をしっかり守りなさい(Planted and built up in Jesus Christ, Firm in the Faith)」(コロサイ2・7参照)でした。

教皇様は21日のミサで、キリストを信じるとは、自分のすべてをキリストに明け渡すことであると言われました。また次のように祈るよう勧められました。

「主イエスよ、わたしはあなたに忠実に従い、あなたに言葉に従って歩もうと思います。すべてにおいてわたしはあなたに信頼し、全生涯を御手にゆだねます。どうか主よ、わたしを励ます力、決して離れることのない喜びとなってください。」

本日の第二朗読でパウロは言っています。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。・・・心を新たにして自分を変えていただきなさい・・」(ローマ12・1-2)

わたしたちは、ややもすれば、自分のことは差し置いて、他人と社会に対し、自分が望むように変わって欲しいと願います。しかし人に変わってもらうためにはまず自分を変えなければなりません。

今日堅信を受けられる20名の皆さん、まず自分を変えていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。自分のどんな点を変えて欲しいか、よく考え、祈ってください。