聖クララ会創立800周年記念ミサ説教

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    2011年8月11日 八王子市・聖クララ会修道院にて

     

    第一朗読 ホセア書(2・14b-15b、19-20)

    第二朗読 コリントの信徒への手紙(二4・6-10,16-18)

    福音朗読 ヨハネによる福音(15・4-10)

     

    シスター方、お集まりの皆さん、クララ会創立800周年、おめでとうございます。

    ちょうど800年前イタリアのアッシジで聖フランシスコの説教に感動したひとりの若い女性が修道生活を始めました。聖クララ会の始まりです。

    「なんと幸せなことでしょう。聖なる方と親しく交わり、こころの奥深いところからキリストに結ばれることがゆるされた人は。・・・キリストの愛情に、心は締め付けられるほどです。・・・キリストの寛大さは、わたしたちの満たしてくださいます。その魅力は、わたしを夢中にさせます。その思い出は、わたしたちを心地よい光で満たします。キリストの香りに死者はよみがえります。・・・キリストは永遠の栄えある輝き、『永遠の光の反映、曇りのない鏡』ですので、王妃にしてイエス・キリストの花嫁よ、この鏡に絶えず目を注いでください。」

    聖クララがプラガの聖アグネスに宛てた手紙の中のクララの言葉です。キリストに奥深く結ばれた者にゆるされた幸福で甘美な光りに満ちた体験が述べられています。体験したものでなければ決して語ることのできない言葉だと思います。

    この天上の喜びを地上で体験する生活が観想生活でありましょう。

    このすばらしい体験へ至るためには経なければならない三つの道があるとクララは教えています。「清貧」、「謙遜」そして「愛」であります。キリストに倣ってこの三つの徳を実践して初めて天上の光に浴することができます。

    クララ会は「清貧」を特に大切にする会です。いまの時代「清貧」ということほど、なおざりにされている時代はないでしょう。わたくしたちは自分の生活を振り返ると、いかに自分たちが快適で便利な生活に慣れてしまっていることかと愕然とします。自分の生活が不必要で贅沢なものに囲まれているのに驚きます。物に振り回されている自分がいます。修道者でなくとも、簡素で慎ましい生活を心がけなければなりません。

    「謙遜」については自分自身の心をみれば、語るのも躊躇します。馬小屋でお生まれになり、恥辱の最後を遂げられた主イエスに倣うべき自分がなんと自己中心で傲慢であることでしょうか。自分の思いが相手に通じなかったリ、相手がはかばかしく応答してくれないときに不快を感じる自分がいます。自分の価値を認めていないのではないかと相手の言動にいらだつ自分、自分への評価を求めて一喜一憂している自分がいます。

    今朗読された福音書が伝えているように、主イエスは言われました。「父がわたしを愛したように、わたしもあなたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

    イエスの生涯、特にその御受難を通して示された神の愛をわたしたちはどのように理解しているでしょうか?神の愛を深く知り、神の愛に応えなければなりません。

    8月6日に日本のカトリック教会の平和旬間が始まりました。わたしは6日に世田谷教会でミサをささげましたがミサの後で大学教授をしておられる方と話す機会がありました。

    いま日本でもイスラム教徒になる青年が増えていると言います。イスラムの教えはわかりやすいそうです。徹底した祈りと愛の実践を説きます。若者はこの点に惹かれるのではないだろうか、ということでした。若者はラディカルな生き方に惹かれます。

    観想生活は徹底した生活です。自分の持ち物を、自分の体を、自分の心を神にすべてささげる生活、非常にラディカルな生活です。

    現代人の生活は複雑になってしまいました。修道者でなくとももっと貧しく簡素に生きる道が求められています。聖クララの清貧の霊性に現代の人々は学ばなければならないと思います。

    いま、平和旬間中、祈りのリレーを呼びかけています。多くの方が協力してくださっています。祈り、働き、自然と親しみ、日々神の言葉に生かされ、互いに受け入れあい助け合いゆるしあいながら、よりよい社会をつくる人々の輪が広がることを心から願っています。

    聖クララの清貧の霊性が現代の日本で多くの人々に伝えられますよう、祈りましょう。