五井教会説教(年間第16主日)

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    2011年7月17日 年間第16主日 五井教会にて

     

    第一朗読 知恵の書(知恵12・13、16-19)

    第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・26-27)

    福音朗読 マタイによる福音(マタイ13・24-43)

     

    先週の主日の「種まきのたとえ」に続き今日も天の国のたとえである「毒麦のたとえ」が告げられます。

    ある人がよい種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦が現れた。僕たちが主人のところに来て言った。「だんな様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」主人は、「敵の仕業だ」と言った。そこで僕たちが、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は言った。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで,両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取るものに言いつけよう。

     

    麦と毒麦が同時に育っている畑とはまさにこの世界の現実をさしています。そしてまたこの世界を構成しているわたしたち人間の現実をも現しているとわたしは思います。わたしたちの心の中には麦とともに毒麦が育っています。やっかいなことに毒麦を抜こうとすると麦まで抜いてしまうことになります。麦と毒麦の根が互いに絡み合っているので、毒麦を抜くと麦も一緒に抜けてしまうのです。あるいは、両者は外見上似ているので、毒麦のつもりで抜いても麦を抜いてしますことも起こりえます。

    人間の体も同じことが言えそうです。体のある部分の不具合を直そうとして、かえって体全体を悪くしてしまうことがないでしょうか。人の欠点についても同じです。その欠点を気にするあまりその人自身をだめにし、あるいは壊してしまうことがないでしょうか。欠点はそのままにして長所を伸ばすことにより結果的に欠点を克服することもあるのではないでしょうか。

    わたしたちの神は忍耐深い方です。神は世の終わりまで裁きを待ってくださいます。ですからわたしたちも性急に人を決め付けて裁くようなことをしてはならないと思います。

     

    わたしたち自身の中に、よい麦と毒麦の双方が存在します。使徒パウロは霊の導きと肉の業について述べます。人には、神の霊である聖霊に従って歩む自分と、霊の導きを拒んで自分の考えや欲望に従って歩むという肉の奴隷となっている自分の両方が存在します。

    パウロは教えています。

    「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテア5・16-17)

    自分が霊に従って歩んでいるか、それとも肉に従っているのかを知るためにはどうしたらいいでしょか。それは、霊の実りが自分にあるのか、あるいは肉の業に支配されているのか、を調べればいいのです。

    「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテア5・22-23)一方、肉の業は、

    「姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴,その他このたぐいのものです。」(ガラテア5・19-21)

    謙遜に自分の心の動きを調べてみましょう。

     

    神は忍耐深い方です。わたしたちの隣人に対して忍耐深くなければなりません。そして自分自身に対しても忍耐を持ちましょう。自分の中に肉の業があることを認めましょう。そして聖霊に導かれて歩むことができますよう、聖霊による赦しと清めを祈り求めましょう。

    アーメン。