清瀬教会黙想会説教・講話要旨

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    2011年4月17日 清瀬教会にて

     

    第一朗読 イザヤの預言(イザヤ50・4-7)

    第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)

    福音朗読 マタイによる福音(マタイ27・11-54)

     

    《説教》

    今読まれたマタイの福音で、イエスが十字架の上で言われたことばがそのままの音声の表記によって今日まで伝えられています。

    「エリ、エリ。レマ、サバクタニ。」これは、(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〉という意味であります。

    イエスの十字架の下にいた人々は固唾を呑んでイエスの最後を見守っていたことでしょう。そしてこのイエスの言葉は彼らの心に強く、深く刻み込まれました。そこでこの部分は原文のまま残り、原文の表記が残され、ギリシャ語などには翻訳されるときに、訳文と併記されることとなりました。

    このイエスのことばは詩編22の冒頭の言葉と同じです。

    「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか。」

    これは本日の答唱詩編の答唱句と同じです。

    イエスはこの言葉をどんな気持ちで口に上らせたのでしょうか?イエスの受けた苦しみは肉体の苦しみだけではなく、精神的な苦しみでもありました。弟子たちに裏切られ見捨てられる苦しみ、人々の前で辱められ侮られる苦しみ、そしてさらに天の御父からも見捨てられる苦しみ。イエスは、父がいつも自分の内におられ、自分が父の内にいる、と宣言していました。その父への信頼が揺らいだのでしょうか?イエスは非常なる苦しみの中で父に向かって叫びます。愛する御子のこの叫びを天の父はどんな思いでお聞きになったでしょうか?それはきわめて〈つらい〉お気持ちではなかったでしょうか?この〈つらい〉という日本語がそのときの神様の心を表すに非常に適しているように思います。〈つらい〉ということは心に痛みがある、神は痛みを持たれた、ということではないか、と思います。愛するひとり子を見殺しにしなければならなかった神様の苦しみ、それは神の痛みということではないでしょうか。御子イエスの受難をわたしたちは今日思い起こしていますが、さらに御父の痛みということにも思いを馳せたいと思います。

     

    《講話》

    「イエスは誰であるのか」ということが初代教会の大きな問題でありました。使徒パウロが言っているように、「十字架はユダヤ人には躓き、ギリシャ人には愚かなこと」でした。ユダヤ人にとって、全能の神が十字架の苦しみを受けるということは考えられませんでした。またギリシャ人にとっても、神が民の罪のゆるしのために十字架にかかって贖いの犠牲になる、という考えもまったく考えられない愚かなことでありました。

    ローマ帝国のキリスト教徒迫害が終わってまもなく、325年、ニケアの公会議が開かれ、イエス・キリストは父と一体、同一本質であると宣言されました。イエスは父である神と同一の本質、ギリシャ語で「ホモウシオス」であるとされました。アタナシウス(アタナシオス)という人の主張が採用されたと伝えられています。

    しかし、神と等しい人が十字架の苦しみを受けたとはどうしても受け入れがたいと考えた人もいまして、〈キリスト仮現説〉という説が現れました。「十字架にイエスは実は幻であって苦しんでいるように見えていただけだ」という説です。しかし、「イエスは本当に人間として苦しまれた」ということがわたしたちの信仰であります。

    イエスの説いた天の父は旧約聖書の神様と同じ方です。「神とは誰か、神とは何か」をことばで説明するのが〈神学〉theologiaです。旧約から新約への発展の中で神理解も発展し、次第に怒りの神から赦しの神への理解が深まってきました。

    旧約聖書を読みますと目立つのは、怒りの神の場面です。たくさんありますが、エゼキエルの預言から引用してみましょう。

    今や、わたしはお前に向かって憤りを注ぎ

    お前に対して、わが怒りを注ぎ尽くす。

    わたしは、お前の行いに従って裁き忌まわしいすべてのことをお前に報いる。

    わたしは慈しみの目を注がず

    憐れみをかけることもしない。

    お前の行いに応じてわたしは報いる。

    お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。

    そのとき、お前たちは知るようになる

    わたしが、お前たちを打つ主であることを。(エゼキエル7・8-9)

    エレミヤの預言も神の怒りを説きます。30年以上にわたってエレミヤは神の怒りを説きましたが、31章でエレミヤの預言は突如、<変調>します。

    そのとき、おとめは喜び祝って踊り

    若者も老人も共に踊る。

    わたしは彼らの嘆きを喜びに変え

    彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。

    祭司の命を、髄をもって潤し

    わたしの民を良い物で飽かせると

    主は言われる。(31・13-14)

    そして次に31・20という非常に重要な箇所がでてくるのです。

    エフライムはわたしのかけがえのない息子

    喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに

    わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り

    わたしは彼を憐れまずにはいられないと

    主は言われる。

    これは新共同訳です。問題は「彼を深く心に留める」という箇所です。

    かつての日本聖書協会の文語訳では

       「わがはらわた彼のために痛む」

    となっていました。ところが文語訳が口語訳になったときにこの箇所は

       「わたしに心は彼をしたっている」

    とされました。<痛む>と<したう>ではまったく違う意味になる、といってもいいでしょう。どうしてそんなことになったのか?

    カトリックのフランシスコ会訳は

       「わたしのはらわたは彼を切望する」

    で聖書協会訳とほぼ同じです。

    新改訳聖書は

       「わたしのはらわたは、かれのためにわななき」

    と訳しています。

    The New English Bibleでは

       「My heart yearns for him」

    となります。

    この点について非常に詳細な考察をした方が、北森嘉蔵という、国際的にも有名になった、プロテスタントの日本人の神学者です。以下にその説明を紹介します。

    《宗教改革のルターはどう訳したか。

    ルター訳は、日本語に直訳すれば<わたしの心は破れる>としています。

    宗教改革者のカルヴァン訳は<わが腸は鳴り響く>。

    それではヘブライ語の原文ではどういう意味か?

    原文は<ハーマー>という言葉である。これは、「鳴り響く」という意味である。心が異常な る痛みを憶えるときに起こる現象である。

    神は痛みを覚える。神が痛みを克服する愛が神の愛である。これは十字架として現れる。十字架は痛みを克服した神の愛を示している。

    そこで、エレミヤ31-20は「痛む」と訳すべきである》

    というのが北森さんの考察の結論であります。

    ハーマーというヘブライ語の原語は「音を出す、響く」という意味。 アリストテレスの概念による神学はテオス・アパセース。苦しまない神。しかし聖書の神は苦しむ神である。

    イザヤ63・15 には「あなたのたぎる思いと憐れみは」と言う言葉が出てくる。この<たぎる思い>の原文がハーマーである。神が主語でハーマーが出てくる箇所はエレミヤ31・20とこもイザヤ65・15しかない。このことは、神の愛が痛みと深く結びついていることを示している。

    神の愛は罪を赦す愛である。罪を赦すことはたやすくはない。痛みが伴う、しかし赦す側が苦難にとどまっていてはゆるしたことにならない。恩を着せることになる。赦したがそれはつらかったといわれては針の上のむしろになる。赦したものが赦した痛みから解放されて初めて赦された者は、自分が真に赦されたと感じる。それは復活ということである。痛みという体験を潜り抜けると復活と言う光の世界が待っているのである。

    ここでもうひとつの重要箇所である、ホセアの預言の言葉を引用します。

    ああ、エフライムよ

    お前を見捨てることができようか。

    イスラエルよ

    お前を引き渡すことができようか。

    アドマのようにお前を見捨て

    ツェボイムのようにすることができようか。

    わたしは激しく心を動かされ

    憐れみに胸を焼かれる。

    わたしは、もはや怒りに燃えることなく

    エフライムを再び滅ぼすことはしない。

    わたしは神であり、人間ではない。

    お前たちのうちにあって聖なる者。

    怒りをもって臨みはしない。(11・8-9)

    教皇ベネディクト16世の最初の回勅『神は愛』で引用されている箇所です。

    まるで神が自分に言い聞かせるような表現がおかしいです。神が一生懸命怒りを抑えている様子が伺えます。神様が自分の中で葛藤しているかのようです。

    「激しく心を動かされ」の部分を見ますと、ある英訳によれば

    I have had a change of heart.

    となります。「心を変えた」「思い直した」 ということでしょうか。

    関根訳では「わが心はわがうちで向きを変え」

    バルバロ訳「わたしの心は思い乱れて、はらわたは、打ちふるえる。」

    新改訳「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」となっています。

    どうも神様は自分の心を変えて民を赦す愛に傾きます。神の義よりの神の愛を優先させるかのようです。

    教皇様は言っています。

    「自分の民‐人類‐に対する愛は、同時にゆるす愛です。この愛があまりにも大きいために、神は自らに逆らい、神の愛が神の義に逆らいます。キリスト信者はここにすでに十字架の神秘をぼんやりとした形で前もって示されているのを見出すことができます。神の人間に対する愛があまりにも大きいために、神は人間になり、死に至るまで人間に従うものとなりました。こうして神は正義と愛を和解させたのです。」(『神は愛』10)

    また次のように言っています。

    「イエスの十字架上での死によって、自らに逆らう神の業は完全に実現します。イエスは、人間を高く上げて救うために自分をささげました。イエスは最も徹底的な形で愛を示しました。」(『神は愛』 12)

    神の愛は赦す愛です。怒りの神の後ろには赦す愛の神が隠れていましたが、次第に神の赦しが現れてきます。

    赦すとは罪を認めることとは違います。悪を善とすることではありません。罪人を赦すとは神が痛みを負うことです。罪をあがなうということです。

     <あがなう>と言う言葉の漢字に

    「購う」と「贖う」があります。前者は犠牲を払って救うということであり、後者は金を払って買い戻す、ということです。ともに痛みを伴うことです。イエスはわたしたちの購いとなられました。イエスを信じるものを通して与えられる救いが新約の救いです。

    エレミヤ31章は新約の預言を伝える旧約聖書の頂点の箇所とも言われています。

    見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。(エレミヤ31・31-34)

     

    以下の著書の教示に預かりました。ここに記して謝意を表します。

    北森嘉蔵『神の痛みの神学』教文館

    北森嘉蔵『エレミヤ書講話』教文館