教区の歴史

教区の歴史

主の洗礼・板橋教会ミサ説教

2011年01月09日

2011年1月9日 板橋教会にて

 

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ42・1-4,6-7)

第二朗読 使徒たちの宣教(使徒言行録10・34‐38)

福音朗読 マタイによる福音(マタイ3・13-17)

 

今日は「主の洗礼」の祝日です。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。そのとき、

「神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった」

今日の福音が告げています。

「キリスト」とは「油注がれた人」という意味で、油は聖霊の働きを現しています。イエスは聖霊に満たされた人=キリストでありました。

今日の第一朗読のイザヤの預言では「主の僕(しもべ)の歌」が出てきます。

  「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を響かせない。

   傷ついた葦を折ることなく

   暗くなった灯心を消すことなく、

   裁きを導き出して、確かなものにする。」

まことに魅力的な僕の姿が描かれています。

神学生のときに曽野綾子さんの小説『傷ついた葦』を読んで感銘を受けました。このイザヤの預言から取った題名であると思います。

主の僕(しもべ)は、細心の気配りによってすべての人を助け生かそうとします。荒々しい態度をとらず、力に訴えることはしません。しかし無力な人に見えますが、実は彼は力に満ちていた人でした。

使徒言行録は「神は、聖霊と力によってこの方に油を注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは神が御一緒だったからです」

と告げています。イザヤが告げる主の僕は、主イエスの先駆け、前しるしと考えられます。

彼は忍耐と愛によって人々の罪を背負い贖う神の僕であります。

 

ところでイエスは洗礼のときに始めて神の霊を受けたのでしょうか?聖霊はイエス自身の霊でした。御子は聖霊を自分の霊として持っておられたのです。しかし御父はわたしたち人類がキリストにおいて霊を受けるために、聖霊を新たにお与えになったのです。それはキリストが人間となり、すべて人と連帯して、人間性の全体を受け取られ、すべての人を救い主、贖い主となられるためでした。

2011年を迎えた東京教区は、主の僕に倣い、主イエスに従って教会の使命を遂行したいと切に望みます。

今日は二つの鍵になる言葉を使って説明したいともいます。

まず「いのち」です。

司教団が教書『いのちへのまなざし』を出してから10周年を迎えました。この機会に『いのちへのまなざし』をぜひ読み直していただきたい。今での非常に新鮮な内容です。いのちにかかわる重要な問題・課題が解説されています。

もう一冊の小冊子も是非読んで欲しいです。カリタスジャパン啓発部会発行の『自死の現実を見つめてー教会が生きる支えになるためー』です。年間3万人が連続13年間自死を遂げる現実をみながら教会として何ができるか、共に考え話し合い祈って欲しいのです。

もう一つのことばは「こころ」です。

東京教区は「こころの問題」を優先課題の一つにしています。これは自死とも深いかかわりをもっています。最近『無縁死』ということが言われています。家族、友人、知人とのえにしが絶たれたまま、あるいは自分から断ち切ってまま、孤独に死んでいく人がやはり年間3万人以上、と報告されています。人を生かすのは心と心の結びであると思います。教会は心と心を結ぶネットワーク、安心できる荒れ野のオアシスでありたい。そのためにわたしたちはどうしたらいいのだろうか?まず何をおこなうことができるだろうか?

今日午後カテドラルで行なわれる年始の集いでの同じ課題を皆さんに問いかけるつもりであります。神様を中心としたこころとこころのつながりを築き広げることこそ教会の使命であります。