イエスのカリタス修道女会誓願式説教

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    2010年12月8日 イエスのカリタス修道女会日本管区本部聖堂にて

     

    第一朗読 創世記(3・9-15,20)

    第ニ朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙(1・3-6,11-12)

    福音朗読 ルカによる福音(1・26-38)

     

    無原罪の聖マリアの日に初誓願を立てられます三人のシスター方、終生誓願の二人のシスター方、心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。

    日本の司教団は、マリア様への祈りの新しい日本語バージョンを発表いたしました。それが今日12月8日です。その新しい文言を皆様に披露して、広く意見を伺い、最終的には来年6月の司教総会で確定することになると思います。ここでまず皆様にマリア様への祈りを紹介いたします。

     

    アヴェ・マリア 恵に満ちた方

    主はあなたと共におられます。

    あなたは女のうちで祝福され

    ご胎内の御子イエスも祝福されています。

    神の母聖マリア

    罪深いわたしたちのために

    今も、死を迎えるときも祈って下さい。

    アーメン

     

    これが司教全員で考えに考えた結論ですが決定ではありません。皆様のご意見を聞いた上で必要ならば修正して決めましょう、ということです。「『聖母マリアへの祈り』の改定について」という短い文書を発表いたしましたので、これをお読み頂き、皆様の間で話し合って頂ければ幸いです。

    さて、マリア様への祈りにある「フィアット」ということについて少しお話したいと思います。わたしの神学生時代はお告げの祈りをラテン語で教わり、個人的には今でもラテン語で唱えておりますが、だんだん皆で一緒にラテン語で唱える機会が無くなって来ました。

    ラテン語の「フィアット」は昔の訳では「なれかし」、お言葉通りにこの身に「なりますように」という意味です。

    FIATというイタリアの車があります。さすがイタリアの国は信心深いなあ、クルマまでマリア様への祈りになっていると感心しましたが、よく聞いてみると、Fabbrica Italiana Automobili Torino の頭文字だそうです。偶然なのかそれともマリア様のフィアットになるように車の名前も付けたのかなあ、と思いますが、そのうち本当のことを教えて頂きたいと思っております。

    天使がおとめマリアに現れて「神の母となる」というお告げをして、マリア様は「お言葉通りこの身になりますように。」これがフィアットです。マリア様がその母の胎に宿ったときから、原罪の汚れを免れていたとわたしたちは信じております。そしてマリア様は私たち教会の模範、しみもしわも無い汚れの無い教会となれますよう、わたしたちは日々マリア様に祈り、倣い、歩んで行こうとしています。

    創世記の朗読にありましたように、最初の人間であるアダムとエヴァは、神さまの言いつけに背き、神さまとの間の親しさが壊れ、神さまとの関係が気まずいものになってしまいました。神さまとの関係にヒビが入ると、それは人と人との関係にも及んで行きます。アダムはエヴァに責任をなすりつけ、エヴァは蛇に責任をなすりつけます。そして人類の間に対立や不安、疑惑という悪いものが入って来たのは、人祖が神さまへの信頼を疑い、それを失ったことから始まったのです。

    私たちは人間として他の人との交わりの中で生きております。他の人の支えなしには一日たりとも生きて行くことが出来ない、しかしわたしたちの苦しみの多くの部分は、いわゆる「人間関係」です。温かい一言で大いに励まされ支えられますが、ちょっとした一言でグサッと傷つきやすい面があります。ですから人間は確かに支え合っているのですが、反面傷つけ合っているとも言わねばなりません。

    今の日本の社会ではどうなっているでしょうか。最近「無縁死」という非常に衝撃的な言葉を聞きました。そして無縁死の人が3万2千人。一人で亡くなり、その人の家族や親しい人が誰もいない、引き取り手が見つからず行政が遺体を葬らなければならないという無縁死のケースが増えているようです。いつの時代にも多少はございましたが、無縁死が非常に増えていることは、現代が人と人とのつながりが希薄になったことをはっきりと表している事実と言えます。

    三つの「縁」が日本の社会では壊れかけていると指摘されています。「地縁」「血縁」「社縁」で三つ目は会社の縁だそうです。これまで終身雇用が多く、家族同様でお互いに助け合って働いていた、しかし今はそういう在り方は非常に少なくなったようです。その中で人は孤独になり生きる意欲をそがれている。自分から死を選ぶ人もいますが、そうでなくても一人で死んで行かねばならない、この状況が本当に神さまのお望みになる社会であるとは、到底思われないのであります。

    人は互いに助け合って生きていくものであり、ある意味では、迷惑を掛け合って生きていくものですが、迷惑を迷惑としてではなく、喜んで受け入れ合い、支え合って行くのが「わたしたちの在るべき姿」ではないでしょうか。まず、この無縁社会をもう一度建て直さなければなりません。人と人とのつながりをもっとしっかりとしたものにしなければならないと思いますが、その全ての基礎にあるものは、神さまと私たちとの関係、つまり信仰です。その信仰者の模範は聖母マリア様です。自分の信仰を深めると共に、自分が出会うすべての人を神さまへの信頼に導き、そしてどんな人をも暖かく受け入れることができますように、聖霊の導き、特に聖霊によって与えられる知恵と勇気を祈り求めたいと思います。