待降節第二主日説教

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    2010年12月5日 目黒教会にて

     

     

    今日の福音では洗礼者ヨハネが登場します。

    「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあります。らくだの毛衣と革の帯というスタイルは預言者エリヤと同じです。エリヤは旧約の代表的な預言者です。北の王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍し、バアルの神に仕えるアハブ王と激しく対立し、いのちを奪われる危険な状況におかれていました。アハブ王の子アハズヤ王のときにアハズヤは三度にわたり、50人隊長とその部下50人をエリヤの下に遣わしましたが、そのうちの2度まで、天から神の火が降ってきて、隊長と部下50人を焼き尽くしたと列王記(下1・9-12)は伝えています。

    このように預言者エリヤは主なる神のために戦い、厳しく「主の目に悪とされること」を指摘して王を非難しました。洗礼者ヨハネはこのエリヤの姿と重なります。ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と激しくファリサイ派の人々、サドカイ派の人々に悔い改めを迫っています。

    ヨハネのメッセージは当時の人々へ向けたものでした。それでは現代のわたしたちはどう受け取ったらいいのでしょうか?エリヤを彷彿とさせる洗礼者ヨハネの厳しさに多少の戸惑いを感じる人もいるかもしれません。

    ヨハネの役割は人々を「後から来る方」イエスへ導くためでした。いわば旧約の時代から新約の時代への橋渡しをするのがヨハネの役割であったと思います。

    ナザレのイエスを通して主なる神が完全に示されました。ヨハネは人々の目をイエスの方へ向けさせ、イエスを信じて従うようにする準備のために来ました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」するために来たのです。

    主イエスの誕生を祝う準備をしている今、わたしは多くの人々の苦しみ、悩み、寂しさ、不安、悲しみを思います。クリスマスは神が人となられたことを喜び祝う日です。神はわたしたちと同じ弱い人間となってくださいました。人々と同じ苦しみ、悲しみを共にしてくださいました。

    最近衝撃的な言葉を知りました。「無縁死」ということばです。一人孤独に亡くなり引き取り手もない死を「無縁死」とよぶそうです。身元不明のままなくなった方が年間3万2千人にも及ぶ、ということです。地縁、社縁、血縁が崩壊した、“ひとりぼっち”の人が急増した結果であるという分析もあります。(『無縁社会』文藝春秋社 による)

    人は人とのつながりの中で生きるものです。そのつながりがみえなくなって孤独なまま世を去る人が増えているこの社会には大きな問題、欠陥をはらんでいるといわざるを得ません。

    クリスマスは人となった神イエス・キリストにおいてすべての人がつながっていることを信じ喜び祝う日であります。

    使徒パウロは「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧めます。一人暮らしの人から「人に迷惑をかけたくないから一人でいる」という言葉が聞かれます。人は人に迷惑をかけないでは生きていけません。互いに迷惑をかけにくい状況が今の社会にあるのではないでしょうか?

    今日の第1朗読にありますような、人間同士だけでなく、すべての生物が互いに受け入れあい、弱いものも安心していられる世界の到来を心から持ち望みたいものです。

    「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

      目に見えるところによって裁きを行なわず

      耳にするところによって弁護することはない。

      弱い人のために正当な裁きを行い

      この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11・3-4)

    これは社会正義の実現の預言でしょう。

    「狼は子羊と共に宿り、

      豹は子山羊と共に伏す。

      子牛は若獅子と共に育ち

      小さい子供がそれらを導く。

      牛も熊も共に草を食み、

      その子らは共に伏し

      獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

      乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

      幼子は蝮の巣に手を入れる。

      わたしの聖なる山においては

      何ものも害を加えず、滅ぼすことはない。

      水が海を覆っているように

      大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11・6-9)

    すばらしい風景です。いわば生きとし生けるものの共生の世界の実現です。この様な世界の到来を心から待ち望みましょう。