教区の歴史

教区の歴史

福音史家聖ヨハネ布教修道女会誓願式・誓願50周年説教

2010年10月16日

2010年10月16日 小金井教会にて

 

第4誓願 シスターファウスチナ 漆原めぐみ

金祝   シスターユスチナ 増田フミ子

金祝   シスターレジナ 江口シズ

金祝   シスターヘレナ 菅間みゑ

 

聖書朗読 使徒ヨハネの手紙一、4・10-11,16;5・4-5,20

福音朗読 ヨハネの福音12・23-26

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24―25)

使徒ヨハネは「永遠の命」を説きます。

「神は、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」〈17・3〉

神はすべての人が永遠の命へいたることを望んでおられます。そのために御子の命すら惜しまれませんでした。

今日の福音では、命という言葉が三回でてきます。「自分の命」の命はヨハネ福音書の原文のギリシャ語ではプシュケーです。これは「息」という意味です。「永遠の命」の命はゾエーです。日本語で同じ命と訳されていますが、原文では違う言葉です。

わたしたちは地上の命を大切にし、健康であるように心がけなければなりません。多く人々が健康のために働いています。その働きは実に尊いと思います。

しかしわたしたちキリスト信者には永遠の命がもっと大切です。教会は永遠の命の福音を告げ知らせるのです。

ところで永遠の命はとは自動的に与えられるのではありません。受ける人の側に「信じる」という応答がなければならないのです。

福音書にはイエスが人々の不信仰をとがめる場面がたびたび出てきますが、信仰を賞賛する場面も少なくはありません。2010年は主日の朗読配分はC年で、ルカの福音が読まれますが、ルカだけをとってみてみると次のような場面を思い出すことができます。

人々は屋根に上って瓦を剥がしてまで中風の病人を床ごとイエスの前につり降ろしました。その人々の信仰をみたイエスは、その中風の人をいやします。(5・17-26)

また、イエスは百人隊長の信仰に感心しています。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。」(7・9)

また罪深い女をゆるして言います。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。」(7・50)

さらに、ヤイロの娘をいやして言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(8・39)

エリコの近くで盲人をいやして言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(18・42)

10月10日、今週の主日の福音では、イエスは重い皮膚病を癒されたサマリア人へ向かって言いました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17・19)

福音書のイエスは実にいやす人として描かれています。今日で言う種々の障がい、たとえば目の見えない人の目を開けて見えるようにした、とか・・・脚のなえた人が歩けるようになるとか・・・さらに目立つのは悪霊、汚れた霊、悪魔を追い出す、という話です。マグダラのマリアは7つの悪霊をイエスによって追い出していただいた女性、とされています。

イエスの宣言した「神の国」はヨハネのいう「永遠の命」に該当すると思います。イエスの福音の中心は、ゆるしであり、いやしであり、命でした。

きょうここにお集まりの皆さんのなかには医療という使命に従事しておられるかたが多数いらっしゃいます。いやしのために働いています。そして、いやしとは基本的には神の働きである、と思います。神から与えられる癒しの恵みを仲介し、お伝えするのがわたしたちの使命ではないでしょうか。

いやしは復活された主イエスからきます。最終的ないやしは復活のイエスのいのちにあずかることでなければなりません。

イエスは自ら人々の病い、患い、とがの結果を背負われました。そして十字架を通してわたしたちを罪とその結果である悪、弱さから解放し、あがなってくださったのです。わたしたちは、もっと深く、イエスのあがないといやしの恵みを信じなければなりません。それはとりもなおさず、神の愛、アガペーを深く強く信じてその恵みに与るということに他ならないのです。

そして、さらに、神様からいただいたこのプシュケーの命を大切にしながら、自分の命を神様のみころに従って生き、さらにイエス・キリストに従って自分の命を神様におささげしなければなりません。

わたしたちの働きを通して、神の愛と光、その結果であるいやしと励ましが一人でも多くの人へ現れ伝えられますよう、祈りましょう。