オリエンス宗教研究所50年祭 感謝と祈りの集い説教

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    2009年11月28日 松原教会にて

     

    聖書朗読
    ホセアの預言11・1-9
    使徒パウロのテモテへの手紙2・4-7

    福音朗読
    ヨハネによる福音20・19-23

     

    ザビエルによって福音を伝えられた日本

    オリエンス宗教研究所創立50年にあたり、一言申し上げたいと思います。

    日本の教会は、聖フランシスコ・ザビエルによって1549年から始められました。短い期間に、多くの信者が生まれました。しかしキリスト教は危険な宗教とみなした時の権力者はキリスト教を禁止しました。その結果、多くの殉教者が生まれましたが、カトリック教会では昨年11月24日、長崎において188人の殉教者の列福式を行いました。その列福一周年の記念として、殉教者の遺物をローマ教皇へ献納するために私はローマへ巡礼をして、昨日帰ったばかりです。

    ローマにはイエズス会の教会である「ジェズ教会」に、ザビエルの右腕が保存されています。この右腕を見て、ある人が言いました「この腕で、四百六十年前に日本人に洗礼を授けたんですね」。そのザビエルが福音を伝え、そして多くの人が信者になりました。そして殉教者が生まれました。

     

    小説『おぎん』に見られる「救い」の理解

    その殉教の話として、私は『おぎん』という芥川龍之介の短編小説を思い出しました。このたび、こちら(オリエンス宗教研究所)で出させていただいた私の著書『現代の荒れ野で――迷い悩むあなたとともに』でも引用させていただきました。

    おぎんは両親に死なれて養子となりますが、その養い親である孫七とじょあんなが熱心なキリシタンの夫婦でありました。捕縛されて役人はさまざまに彼らを説得し、棄教するように迫りましたが、頑としてその3人は教えを捨てない。それで殉教をすることになり、おぎんも一緒に処刑されることになりました。火あぶりになる、その直前におぎんは高いところからお墓を見て、実の両親の思い出し、教えを捨てると突然宣言したのです。

    どうしておぎんがそのように言ったのか、その理由が大変興味深いのです。今、殉教すれば天主さま、神さまの下で幸せになれる。でも天主さまを知らず、イエズスさまを知らない私の両親は地獄で苦しんでいる。私だけ天国に行くわけにはいかない。両親のところに私も参ります、と言って教えを捨てたのです。養い親も結局教えを捨て、そして悪魔が勝利の凱歌をあげた、という話であります。芥川龍之介はキリスト教に大変関心のあった人だったようで、本当に日本的な話だと思います。

     

    すべての人の救いを望む神と救いの仲介者であるイエス

    この「感謝と祈りの集い」のために選んだ聖書の箇所のうち、テモテの手紙では次のように言われています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。

    他方、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」ともあります。ヨハネによる福音でも「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とありました。ここにキリスト教がよって立っている信仰の中心があるわけです。

    すべての人が救われることを望んでおられる神、そして、イエス・キリストによらなければ救われない、イエス・キリストを通らなければだれも父のもとにいけない、この二つの命題をどう調和させるか、これが大きな課題です。

    おぎんは天主さまを信じ、洗礼を受けなければ救われないと信じていた。フランシスコ・ザビエルの時代の教えはそういうものであったのでありましょう。

     

    現代世界憲章の教えから救いの理解を深める

    今日は、もっと深い考えをもつようになりました。そもそも、洗礼ということについても「血の洗礼」や「望みの洗礼」という考えがありました。

    第二バチカン公会議では、カトリック教会だけではなく、他のキリスト教の人びと、他の宗教を信じている人びと、宗教を信じていない人びとについても深い考察をし、『教会憲章』が出されました。その中ですべての人の救いの可能性について触れられております。

    そして、『現代世界憲章』の中には次のような言葉があります。「われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(22項)。時間と場所に制限されるわれわれ人間とは違い、聖霊は時間や場所の制限を受けずにすべての人に働き、キリストの復活秘義にあずかる機会を提供すると信じなければならない、それがどのように行われるのか、それはわかりませんが、神だけが知っている方法によって、ということです。

    すべての人が地上を去るその時までに、あるいはその時に、人は真理を直観する可能性が与えられると私は思って信じています。

     

    生きる力を失った現代人に希望を伝える宗教の使命

    460年前のキリスト教には、他の宗教を攻撃することがあったのではないかと思います。しかし、私たちは教派・宗教の違いを超えて、現代の日本の人びとに救い、やすらぎ、いのちを伝えなければならないと思います。

    400年前に、時の権力者はキリスト教を危険なものとみなし、禁止しました。今はそういうことは全くありません。しかし、多くの人は目には見えない大きな力、悪の力に捕まえられ、生きる力をそがれ、あるいは弱められているのではないだろうかと思います。その多くの人に対して、安らぎと希望と伝えることが、現代の宗教の大きな使命ではないかと考えております。