東京教区アレルヤ会講話

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    2009年11月2日 東京カテドラル構内カトリックセンターで

     

    今日はあまり天候がよくありませんのに、お越し下さいましてありがとうございます。11月1日は、すべての聖人を記念する日です。その翌日が全ての死者を記念する日です。聖人というのは、教会の歴史ではまず殉教者です。信仰を証しした人が殉教者です。殉教というのは証しです。昨年には、ペトロ岐部と187人の殉教者が列福されました。福者といいます。神様のもとにいるので、幸いな人ということです。すべての死者は神様のもとに呼ばれております。そこで殉教した人とか、あるいは地上の生涯を以って神への信仰、イエス・キリストの救いを証しした人も、後に聖人と呼ばれるようになったわけです。昔は「証聖者」と言われました。証しは、証人の証ですね。 

    今日は江戸時代のキリシタンの話をしたいと思います。

    それは「おぎん」という芥川龍之介の作品の一つです。おぎんという名の切支丹の少女の話です。浦上の山里村というところに住んでいました。おぎんの両親は幼い時に亡くなってしまったので、養女になりました。その養い親というのが、切支丹でありました。ジョアン孫七とそれからジョアンナおすみの夫婦です。おぎんも切支丹になりました。そして迫害の時代ですから、この夫婦ジョアン孫七とジョアンナおすみ、マリアおぎんは捕まってしまいます。拷問にあうのです。そして教えを捨てるように責めたてられますが、3人とも信仰を堅く守って決して信仰を捨てるとは言いませんでした。昔の文章ですが、次のように述べられています。

    「年のなたら(降誕祭)の夜、悪魔は何人かの役人と一緒に突然孫七の家へ入ってきた。孫七の家には、大きな囲炉裡(いろり)に“お伽(とぎ)の焚き物(たきもの)”の火が燃え盛っている。それから煤(すす)びた壁の上にも、今夜だけは十字架(くるす)が祭ってある。最後に牛小屋に行けば、ぜすす様の産湯のために、飼桶に水が湛えられている。役人は互いに頷き合いながら、孫七夫婦に縄をかけた。おぎんも同時に括り上げられた。しかし彼等は三人とも、全然悪びれる気色はなかった。霊魂(あにま)の助かりのためならば、いかなる責苦も覚悟である。おん主(あるじ)は、必ず我等のために、御加護を賜るのに違いない。第一なたらの夜に捕らわれたというのは、天寵の厚い証拠ではないか?彼等は皆言い合せたように、こう確信していたのである。役人は彼等を縛(いまし)めた後(のち)、代官の屋敷へ引き立てて行った。が、彼等はその途中も、暗夜の風に吹かれながら、御降誕の祈祷を誦(じゅ)し続けた。べれんの国にお生まれなされたおん若君様、今はいずこにましますか?おん讃(ほ)め尊(あが)め給え。」

    そして代官の取り調べを受けましたが、ひるむところは全然ない。

    「孫七はじめ三人の宗徒は、村はずれの刑場へ引かれる途中も、恐れる気色は見えなかった。刑場はちょうど墓原に隣った、石ころの多い空き地である。彼等はそこへ到達すると、いちいち罪状を読み聞かされた後、太い角柱に括りつけられた。」そして薪が積み上げられたんですね。「刑場のまわりにはずっと前から、大勢の見物が取り巻いている。そのまた見物の向こうの空には、墓原の松が五六本、天蓋のように枝を張っている。」お墓が見えるわけです。 「準備の終わった時、役人の一人は、物々しげに、三人の前へ進みよると、天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えてみろ、もしおん教を捨てると言えば、直ぐにも縄目は赦してやると言った。しかし彼等は答えない。皆遠い空を見守ったまま、口もとには微笑さえ湛えている。」

    それで薪に火がつけられて火あぶりの刑という場面になるのです。原主水たちも火あぶりの刑になりましたね。しかし、火がつけられるというその時に、意外なことが起こったのです。「すると突然一同の耳は、はっきりと意外な言葉を捉えた。『わたしは恩教を捨てる事にいたしました。』声の主はおぎんである。見物は一度騒ぎ立った。が、一度どよめいた後、たちまちまた静かになってしまった。それは孫七が悲しそうに、おぎんの方を振り向きながら、力のない声を出したからである。『おぎん!お前は悪魔にたぶらかされたのか?もうひと辛抱しさえすれば、おん主の御顔も拝めるのだぞ。』そう言って引き留めるわけです。それからおすみの方は、こう言いました。『おぎん!お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ』でもおぎんは『私はやめます。』『お父様、お母様、どうか堪忍してくださいまし。』」

    なぜこの期に及んで、もう天国にすぐにいけるそういう信仰を持っていたのに、教えを捨てたのでしょうか、その理由は何でしょうか?その理由が大変興味深いんですね。怖くなったからじゃないのです。あるいは教えが間違っていると思ったからじゃないのです。どちらでもないのです。では何でしょうか?その理由というのは、処刑される時にお墓が見えたのです。実の父と母のことを思ったのです。わたしのお父様お母様は今、いんへるの(地獄)へ堕ちている。わたしは、はらいそへ行ける。父と母をいんへるのに残しておいてわたしだけはらいそに行くのは申し訳ないという理由なんですね。「ご両親様は天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのにお堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今私一人はらいその門に入ったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、ご両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなさって下さいまし。その代わりおん教を捨てた上は、私も生きては居られません。」

    自分だけ天国に行くわけにはいかないというのです。両親が地獄に堕ちているのに、自分だけ幸福になるわけにはいかないと。孫七とおすみも結果的に転んだとことになっております。

    これは小説なので事実かどうかはわかりません。しかし、これに似た話があったのかもしれません。昔いろいろな小説を読んだのですが、芥川龍之介という人はキリスト教に大変関心がありました。聖書もよく読んだし、随筆も残しているようです。彼はどういう信仰を持ったのか、あるいは持たなかったのかはわかりませんが、まあ、日本の文化人・小説家など若い時にキリスト教に接した人が多いですね。たくさんいます。有島武郎とか、正宗白鳥とか・・・。正宗白鳥は、死ぬ時に信仰に立ち戻ったとどこかで読みました。 

    このおぎんの気持ちというのは、日本的というのか東洋的です。当時、洗礼を受けないで死んだ人、あるいはイエス様を知らないで死んだ人は、救われない。救われないということは地獄に堕ちる。というように信じられていました。必ずしもそうではないのです。昨日、五日市で追悼ミサを捧げて短い説教をしましたが、信者でない人の救いということに触れました。昔から血の洗礼ということも言いました。水の洗礼を受けなくても、殉教した人のことです。洗礼を望んでいた人も「望みの洗礼」と言いました。 

    キリスト教にもいろいろな教派があります。たとえば、カトリックというとわたしたちはとローマ・カトリックと思っていますが、カトリックといってもいろいろなカトリックがあり、いろいろな典礼があります。ラテン典礼、ローマ典礼だけではないのです。この間、わたしはフィリピンで会議に出たのですが、インドから参加した司教さんたちがいましたので、別な典礼、シリア典礼のミサに与りました。カトリックでないキリスト教会も、同じ神様を信じているユダヤ教、イスラム教、それ以外の宗教もたくさんあるわけですし、日本にもたくさんの宗教団体がありますね。仏教系の新宗教もいろいろあります。それからはっきりと宗教を信じていると自覚のない人もいます。そういう人たちは死んだらどうなるのだろうかと、それから死んでしまったわたしたちの先祖たちはどうなのだろうかと当然思うわけです。だからこのおぎんも思ったのです。お父さんお母さんは全然教えを知らなかったから地獄に行っていると。 

    イエス・キリストの福音を聞かないで死んだ人はどうなるのだろうかという疑問に対して、第二バチカン公会議では、救いの可能性ということを言いました。キリスト教徒にならなくても救われるんだったら、なる必要がないんじゃないかという人も出てきてしまいそうですが、わたしたちは、自分の救いのためだけ、ただ救われたいためにキリスト教徒になったということではないと思います。

    では何故わたしはキリスト教徒なのでしょうか?それを皆さんが自分で問わなければいけないのです。 

    先月、ここのカテドラルで子どものミサというのがありました。そのミサの中で劇があり、わたしはイエス・キリストの役で十字架にかかってくれということでした。担当司祭の神父さんは、「子どもたちは絶対忘れませんよ。一生覚えていますよ。」と言いました。

    おぎんの話でも三人が磔になりますが、イエスとあと二人が磔になったわけで、右と左に犯罪人がいました(昔は犯罪人ではなく盗賊という訳だったと記憶しています)。一人はイエスを罵って言いました。「お前がもし救い主なら自分で自分を救え、そして俺たちも助けてくれ。」もう一人の方は「お前は何ていうことを言うんだ!私たちは当然の報いを受けている。この人は何も刑罰を受けるに値するようなことはしていない。どうかあなたが楽園に入ったらわたしのことを思い出して下さい。」

    「どうかわたしのことを思い出して下さい」と、この一言を言っただけなのです。そうしたらイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この「はっきり」の原文は「アーメン」という言葉です。「アーメン」は本来「確実だ、本当だ」という意味です。この犯罪人は最後の一秒で天国行き確実とされたのです。この盗賊の名前も伝説ではいろいろ伝わっていますが、列聖第一号ということになります。聖人の列に加えることを「列聖」といいますね。列聖された第一号が、このいわゆる善い盗賊と言われている人です。イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」と言ったのは、その盗賊が「わたしのことを思い出して下さい」と言ったからです。「思い出して下さい」これがないとだめなのです。もう一人は罵っているだけでした。この人はどうなったのかわかりません。 

    聖パウロは言っています。「神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでいる。」すべての人が救われるのを望んでおられ、救われるということは真理を知ることと同じらしいです。「わたしは道、真理、命である」とイエスは言われました。「わたしによらなければ誰も父のもとに行くことはできない」とも言われました。イエスは真理そのものです。

    神はすべての人が真理に到達し、救われることを望んでおられますが、強制はしません。人間の尊厳はそこにあるわけで、自分で判断し、自分で選択することができるのです。無理やりしたことは、その人が自分で選んだことになりません。神は人間を御自分に似せて創られました。神の呼びかけに答えることができるような存在に御創りになりました。すべての人は神様の問いに答える機会があります。それはいつなのでしょうか。

    洗礼もその一つの時です。洗礼というのは、信じますか?信じます。と答える時です。幼児洗礼の人にも、後から「はい!」という場があります。思いますに、それから一番大切な時は、多分、地上を去る時です。その時にはいろんなことをやってはいられないわけです。何を持っていても持って行けないわけです。その時にイエス・キリストが現れるのではないかと、その人の霊魂が現れるのではないか、と思っています。この善い盗賊のように「わたしを思い出して下さい」と言う機会があるのではないか、と思うのです。 

    聖パウロまた「神と人との仲介者はただ1人イエス・キリストである」とも言っています。つまり、神はすべての人が救われることを望んでおられ、神と人の橋渡しをします。仲介する人はイエス・キリストただお1人です。いろんな聖人にも祈りますけれども、聖人だけではできないわけで、全部イエス・キリストという橋を通らないと神様のところに行けません。

    ではキリストを知らない人は救われるのだろうか、とさっきのおぎんの話に戻るのですが、必ずキリストと出会う、あるいはキリストの霊の働きを受ける。ということが言えるわけです。

    キリストの霊というのは聖霊なのですね。聖霊は時間と場所に限定されません。いつでもどこでも働くわけです。ですから教会とかキリストとかいう言葉を知らない人の心にも聖霊が働くはずであると思われているのです。第二バチカン公会議では次のように言っています。「われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に供給すると信じなければならない。」(『現代世界憲章』22』) 

    救われるということは、キリストの死と復活にあずかるという言い方になりますが、イエスが罪を滅ぼして天国への門を開いて下さったお陰で誰でもその門を通ることができるようになりました。ただし、聖霊の働きに答えないと駄目なのです。この盗賊のように「お願いします。よろしく!」と言わなければなりません。この「お願いします。よろしく!」というのは仏教で「南無」というそうです。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏により頼む、お任せするという意味だそうですね。

    神はすべての人が救われることをお望みになり、そのためにイエス・キリストをお遣わしになり、そして御子を十字架の上で殺されることさえお厭いにはなりませんでした。そして御子の死後、聖霊をつかわしました。聖霊は父と子の交わり、父の霊であり、御子の霊であり、すべての人に与えられています。聖書では旧約の歴史の時から神の霊は働いていたというように教えているわけです。 

    今、「司祭年」を過ごしています。イエスの弟子は12人です。12使徒の1人がイスカリオテのユダであったわけで、裏切り者でした。でもその裏切ったという点では、他の11弟子も同じです。どこが違うかと言うとユダの方は失望して自殺してしまったと書いてありますけど、他の弟子たちは大変後悔しました。ヨハネの福音の復活と聖霊降臨の箇所です。聖霊降臨を50日祭と言っていて50日目に起こったこととされています。週の初めの日、復活したイエスが現れました。弟子たちはユダヤ人が恐ろしくて家に閉じこもって鍵をかけていたのですが、そこに復活したイエスが入ってこられて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃり、重ねて言われました。「父が私を遣わしたようにわたしもあなたがたを遣わす。」そうして、息を吹きかけて「聖霊(プネウマ)を受けなさい。あなた方がゆるす罪は、ゆるされる。あなた方がゆるされない罪はゆるされないままになる」と言われて弟子たちを派遣されました。「良い便りを伝えなさい。」と。

    使徒とは使わされた者という意味です。パウロは別途復活したイエスに出会います。ダマスコに行く途中、天から強い光が射してきて「サウロサウロなぜ、私を迫害するのか?」という声が聞こえてきたのです。パウロの回心、サウロからパウロになったわけであります。この使徒、そして教会の歴史を見ると最初の教会、初代教会では、監督と言われる人や長老と言われる人や執事と言われる人がいたことがわかります。野球の監督と同じ監督です。長老という人たちはその群れの世話人ですね。執事というのは、今で言えば、人のお世話をする、病気の人や貧しい人のお世話をしたり、その共同体の経済のことだの、建築のことだの実際的なことについて教会に奉仕した人でありまして、非常に重要でありました。この三つの役割の区別は、最初ははっきりしていませんでしたが、次第に位階制というものが確立して司教、司祭、助祭とこうなってきたのです。助祭は、司祭とは違いますね。今、世界中に助祭という方はたくさんいます。教会の奉仕者の中で司教、司祭、助祭がよく働くことができますように皆様のお祈りが大切です。 

    今日の話の締めくくりですが、「おぎん」という小説の話をしましたが、神はすべての人が救われることを望んでおられます。わたしたちはすべての人が救いに与る可能性を持っていますし、(すべての人が)持っていたということを信じなければなりません。でも神様の呼びかけに答え、あるいは神様に自分をお委ねするというそういう信仰が大切であるということです。

    マリア様にお祈りいたしましょう。

    「恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます。主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎える時も祈ってください。アーメン」