着座記念ミサ説教

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    2009年9月6日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

      今日のマルコによる福音もイエスによる癒しの話です。耳が聞こえない人、そして口を利くことのできない人を癒された、そういう話であります。イエスはその人の両耳に指を差し入れ、それからその人の舌に唾をつけ、更に天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。「エッファタ」とは「開け」という意味であるとマルコは告げています。その場面をいま想像してみたいと思います。 

    イエスは動作と共に深く息をつくと、それから「エッファタ」という言葉を発せられました。イエスの使っていた言葉はアラム語と言われています。このアラム語の言葉をそのまま2000年後に世界中で使っています。この部分についてはイエスが使われたその音声をできるだけ再現しようとしております。同じような例は「タリタ・クム」という言葉です。6月28日に私がここでミサを捧げた時、福音に出てきた言葉です。イエスのなさること、そしてイエスのおっしゃることは必ずその相手に結果を生じさせます。イエスの癒しと救いの動作、言葉はその中に神の恵み、神の救い、神の購いを実現させる力をもっています。

    このイエスの使命を受け継いでいるのが私たち教会であります。現代の困難な状況の中で多くの人は悩み、苦しみ、迷っている。その人々のために私たちはイエスから力をいただき、光を受け、このイエスの働きを少しでも実行していかなければならないと思います。 

    今日の第一の朗読はイザヤの預言でした。あたかもこのイエス、メシアの到来を予め告げ知らせているような場面であります。見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が聞こえるでしょう。歩けなかった人も鹿のように躍り上がるでしょう。口の利けなかった人は喜び歌うでしょう。

    単に耳が聞こえるようになっただけではあまり意味がないということはないのですが、それだけではない、それ以上の意味が示されていると思います。今まで聞こえなかった神の言葉が聞こえるようになる、そして神を賛美することができるようになる。神の示した道を喜んで歩むようになります。それがイエスに出会った人の歩む道、イエスに出会った人の召命の道ではないでしょうか。そして荒れ野だったところが豊かな地になる、水が湧き出でる、川が流れる、湖ができる。そこで人々は神の恵みを喜び歌う。そういうようになりますと、これはバビロン捕囚という非常に苦しい体験の中でイスラエルの人々が学んだ主なる神への信仰、希望であると思われます。 

    さて、今日9月の最初の日曜日、毎年岡田大司教着座記念のミサを捧げることになっております。9年前、私はここで大司教に就任いたしました。9年の間、皆様に支えていただき、助けていただき、本当にありがたく思います。また、いろいろ至らないこと、あるいは躓かせることもあったかもしれません。この席をお借りしてお詫び申し上げます。あの時申し上げたことを自分でもう一度しっかりと心に刻み、そして残された大司教としての使命の年月を捧げたいと思います。

    司教のモットー、私の場合は「主に望みをおく人」であります。これは今日の第一朗読のイザヤから採られたものであります。イザヤ書40章31節、その前から読んでみます。

    ヤコブよ、なぜ言うのか 

    イスラエルよ、なぜ断言するのか

    わたしの道は主に隠されている。と

    わたしの裁きは神に忘れられた、と。

    あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

    主は、とこしえにいます神

    地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

    倦むことなく、疲れることなく

    その英知は極めがたい。

    疲れた者に力を与え

    勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

    若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

    主に望みをおく人は新たな力を得

    鷲のように翼を張って上る。

    走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

    実際のところ、人間は倦み疲れるのであります。「もうこれぐらいにしてもらいたい、もうこれ以上できない、勘弁してほしい、大体自分がこういう職に就いているのが間違いなんだ」などという思いが胸に浮かんでくる。「どうして自分は今ここにいるのだろう。『主に望みをおく人』これ誰が言ったのか」・・・そういうことがなかったとは言えません。自分は「主に望みをおく人」としてこの任務を行う者である。今日もこのことを自分に言い聞かせなければならないのです。

     

    就任した2000年という年は大聖年でありました。ヨハネ・パウロ2世教皇様が行われた偉大な事柄の中の一つであります。教皇様は2000年を迎えるにあたって教会の反省ということを言われました。これは実に画期的なものすごい出来事でありました。教会が(教会のメンバーが)基本的人権を侵害したことがある、信教の自由を侵害した、暴力ということも使ってしまった、あるいは使うことを黙認してしまった、女性の皆さんの尊厳について多々問題があった等の重大な反省を発表なさったのです。 

    日本のカトリック教会が1987年に第一回福音宣教推進全国会議、いわゆるNICE―Ⅰを行いました。私はそのとき、直接その準備に携わった者の一人として、司教になってからは、そのNICEの精神を自分の担当の地域の中でできるだけ浸透させ実行しようと努めました。東京大司教になりましたときも同じ気持ちで申し上げました。

    「開かれた教会をつくっていきたい」。誰に開かれた教会かと言うと、それは教会に来にくい人です。教会が遠い人です。教会が何かの力や慰めになっていると感じられない人、弱い立場に置かれている人々。いろいろな問題、困難を抱えているにとって教会の敷居が高い。そのときは、外国から来ていろいろな困難な状況に置かれている人が第一に念頭にあり、また不当な圧迫や人権侵害を受けている多くの人々のことを考えていました。しかし9年経ってみて、もう一つ非常に重要なことがそこには欠けていた、あるいは視野に入っていなかったことに気がつきました。それは心の病に苦しむ人、あるいは心に傷を負っている人です。誰がそうで、誰がそうでないかということは私にはわかりませんが、人は程度の差こそあれ、心の傷をもっているものです。ある程度を超え、ある範囲を超えますと、自分でもどうにもならないし、どこかに救いを求めます。しかし、きちんと受け止めることのできるところは少ない。教会はそういう方をしばしば見るようになり、でもどうしたらいいか分からないでいます。司牧しておられる司祭たちもそのことで大変悩み、どうしましょうと。そういう中で東京教区は三つの優先課題というものを定めました。その中に、心の病や傷を持って苦しむ人のために教会はできることをしたい、何ができるのか、あるいはどういうことはしない方がいいのか、先ずそういうことを学ぶことから始めました。なかなか難しいことであります。 

    昨日、四谷の麹町教会で「心のセミナー」というものを開きました。非常に多くの人が参加され、精神科のお医者さんでカトリック信者の井貫先生という方のお話を伺いました。大変ためになったと思います。昔、「砂漠のような東京」ということばが流行りましたけれど、人を生かすよりも人を追い詰めたり傷つけたり、あるいは死に追いやってしまう、そういう環境の中で、人々を助け、潤いを与え、希望を与える教会のネットワーク、教会の共同体、そういうものを育てていきたいと思います。それが東京教区の非常に大切な使命ではないかと思います。そのために私たちは力を尽くし、また神様に祈りを捧げたい。どうぞ皆様これからもよろしくお願いいたします。