アレルヤ会霊名祝いミサ説教

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    2009年6月27日 麹町教会にて
    東京教区アレルヤ会主催  

     

    聖ペトロ・聖パウロの祭日は6月29日です。今日、その日の来る前にペトロとパウロのごミサをお献げしております。教皇様はパウロの年を宣言なさいました。去年の6月28日から今年の6月29日までの一年です。そこで、今日はパウロのことを少し一緒に思い起こしたいと思います。 

    2番目の朗読は「テモテへの手紙」です。テモテというのはパウロが生んだ霊的な子ども、大変信頼していたようです。「テモテへの手紙」ⅠとⅡが聖書として残っています。この「テモテへの手紙」は、おそらくローマで書いたようです。しかもローマの獄中だったかもしれません。パウロは自分の殉教を覚悟します。もう老年に達していたと思われます。テモテは、まだ若い。そしてエフェソにいたらしいです。ローマの獄中からエフェソの教会を司牧している、若い、愛するテモテへ自分の思いをしっかり託したい。それが「テモテへの手紙」だと思われます。 

    パウロ年ということで、毎日パウロの手紙を読んで黙想しなさいという勧めがあり、この一年毎日なんとか少しずつ読んできましたので、パウロという人が以前よりは、ぐっと身近な存在になりました。パウロは自分の最期が近づいたことを自覚しました。「私自身は既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」このように言っています。この信仰と確信は、素晴らしいものだと思います。わたしたちもそういうふうに断言できる深い強い信仰を持ちたいと思います。パウロのようにいかないかもしれませんが、そのあとのパウロの言葉は、わたしたちに大きな慰めだと思います。「私だけでなく主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」パウロのような生涯を送るのはとても無理だと思いますが、パウロの教えに従い、復活された主イエス ・キリストにひたすら信頼をよせて、主の救いを待ち望むならば、私たちもパウロと同じように義の栄冠を授かることができるのではないか、そのように希望することができると思います。 

    さて、このパウロの手紙は、聖書にたくさん残っていて、大変難しい教えがありますが、この手紙をじっくり読んでみると非常に個人的な日常的なことも出てきます。この「テモテへの手紙」の今の箇所の少し後にこういう言葉があります。「あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。」もう殉教しようという人なのですけれども、やっぱり寒い冬が来たのでしょうか。「あっ、そう言えば、あの外套を持ってきてくれ」と何かちょっと拍子ぬけするような感じがします。さらに言っています。「また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。」羊皮紙は非常に貴重なものでありました。そういうものが欲しい、確かあそこに置いてきた。と 大変日常的、実際的な話ですね。パウロの手紙を読むとそういうことがよく出てきます。いろいろな友人知人を思い出して誰それによろしくということも何度も出てきます。本当にパウロは一人の人間として生涯を終えたという、パウロの人間的な側面がよく伝わってくるそういう手紙であると思います。 

    今日は、せっかくの機会でありますので、ごくごく簡単にもう一つのことをお話ししたいと思います。それは先週一週間開かれた日本の司教総会のことです。日本の16教区の司教が集まって日本のカトリック教会の重要なことを話し合いました。

    ご存じのことと思いますが、日本では5月から裁判員制度を開始しました。私たち市民が裁判に参加するという新しい制度です。これを教会としてどう受け止め、どう応えたらいいのかということについて です。わたしたちはまず、裁判員制度というものがどういうものであるかを勉強しました。次に日本の法律の面から専門家、あるいは担当者のお話を聴き、それから教会法の専門家の話を聴きました。そのようにして裁判員ということについて勉強し、そして次に、皆さん日本の教会にどのようにわたしたちの考えを伝えていったらよいかということを、かなり時間をかけて話し合いました。

    その結論は皆様にお伝えいたしましたが、聖職者、司教・司祭・修道者の場合、そして信徒の場合と2つに分けました。聖職者の場合は、教会の掟があって聖職者の身分、立場から国家権力の行使に参加することは通常禁止されているということから、辞退することを基本とします。信徒の場合はどうなのか、これが難しいです。一律に「参加してがんばりなさい」とも言えず、「参加を辞退しなさい」とも言えないです。それぞれの人がよく考え、自分の牧者と相談しながら自分の良心に従って決めて下さい。ただ決める場合に、判断する場合にどういうことに注意してほしいということを伝えましょう。

    裁判員になることが個々の人の良心の自由、信仰の自由、思想信条の自由にぶつからないだろうかという心配があります。もう一つ、死刑ということをどう考えたらよいかということです。死刑に関係してしまう可能性があります。カトリック教会では死刑をどう考えるかということをこの機会によく調べていただきたいです。教皇様の教えもそうでありますが、死刑をしなければわたしたちの社会の安全、あるいはわたしたち自身の生命の安全が守れないという場合はほとんどないので、死刑は妥当ではないという結論です。

    さらにもっと丁寧に詳しくお伝えしなければならないし、皆様の意見も聞かなければならないと考えています。同じカトリック信者であっても、いろいろな意見があるでしょう。賛成の方もいると思いますし、反対の方もいると思います。また聖職者であっても自分は参加して自分の意見を述べたいという方もあるでしょう。そういう場合にどうするか、所属の司教は彼のそういう気持ちをどう受け止めたらよいか。 

    総会の後半は宣教についての話し合いでした。これは司教だけでなく、司祭の代表者として各教区から一人ずつ出ていただき、話し合いをしました。直接司祭の皆さんからお話を聞くことは大変有益だったと思います。信徒の方からも直接お話を聞く必要があると思います。1987年にNICE-Ⅰ(第1回福音宣教推進全国会議)というのをしました。この会議には信徒の皆さんが多数出席しました。その後どうなったのかということをきちんと整理して、これからの宣教に役立てないといけないと思っています。

    パウロの年が終わり、司祭の年となりました。日本の司祭が司教、信徒の方と一緒にいただいた使命、日本における福音宣教を力強く進めてゆくことができますように、よく話し合い、そして、よく学び、よく祈りたいと思います。