教区の歴史

教区の歴史

日本女子修道会総長管区長会総会開会ミサ説教

2009年05月27日

2009年5月27日 四谷 ニコラ・バレ聖堂にて

 

聖書朗読 使徒言行録20章28節-38節
福音朗読 ヨハネによる福音17章11節b-19節

 

次の日曜日は聖霊降臨の日です。日本女子修道会総長管区長会の会議が聖霊の恵みに満たされてよい実りをもたれますようにと心から願い祈っております。

今日のイエス様のおことばから、私が感じましたことをひとつ申し上げて説教に代えさせていただきたいと思います。

主イエスは受難の前、弟子たちと食事を共にし、弟子たちに最後の訓戒を与え、そしてイエスの名によって天の御父に祈るようお諭しになられました。そしてご自身、天の父にお祈りになりました。その祈りが今日のヨハネの17章だと思います。

「わたしがお願いするのは彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです」と言われました。また、次のようにも言われました。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」。使徒とはイエス・キリストによって派遣されたものであり、使徒たちは聖霊降臨のときに聖霊を豊かに受けました。このときわたしたちの教会が誕生しました。

教会は主イエス・キリストの命令に従い、世界中に派遣されてキリストの死と復活の証人となるように定められております。派遣されているということがわたしたち教会の出発にある大切な事実であると思います。世に派遣されているわたしたちです。 

教会は世にあるものであるということ、この「在俗性」ということを今日は思い起こしたいと思います。この在俗性ということで、ひとりの司教様を私はすぐに思い出しました。亡くなられた島本要司教様です。あれはいつのことだったでしょうか、「信徒の召命と使命ついて」のシノドス(世界代表司教会議)が開かれまして、日本からは島本司教様が出席されました。島本司教様は当時信徒使徒職委員会の委員長をしておられたことから、そうなったのかもしれません。このとき島本司教様はラテン語で発題なさって「教会はこの世に派遣されている。教会にとってこの世にあるということが教会の本質的な性格である」と言われたと思います。信徒はこの世にある、しかし我々、司祭とか修道者は違うのだという考えがなんとなくあるわけです。それを否定するわけではないが、教会というのはこの世に遣わされているもの、この世にあって、教会であるということをおっしゃったと思います。皆さま は修道者でありますが、この世にあって、しかもこの世の真っただ中にあって、日夜ご苦労を重ねていらっしゃると推察申し上げます。 

教会は遣わされたものです。信徒であっても奉献生活者であっても、司教・司祭であってもその点は共通であります。もちろん、それぞれの身分、立場によって具体的な役割は違ってくるのであります。しかしこの世にあるということにおいて変わりはない。この世にあってイエス・キリストを証し、宣べ伝える。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです」。この悪いものとは何でしょうか。すべての悪を指すのか、悪霊の誘惑を指すのかわかりませんが、この世はさまざまな問題、悪に染まったさまざまなことでいっぱいであります。その中でわたしたちは、自分の召命を貫き、証しをしていかなければならないのです。 

皆様は今回、今の日本の社会の現実を踏まえながら、どのようにして修道者の召命を生き、且つ日本の教会としての使命を生きるのかということを話し合い、分かち合うことになっていると聞いています。

私の毎日もいろんなことから織りなされています。「東京カリタスの家」という財団団体があります。その団体の理事長を私はしております。そのカリタスの家の会議がありました。現在の財団法人は新しい法律に従って、新しい法人格に移行しなければならいということになり、どういう法人になったらよいだろうかという議論をしているわけです。

1987年もう22年経ちますが、第一回福音推進全国会議(NICE-1)というのが開かれました。「開かれた教会づくり」というテーマで、日本の社会の現実に教会がどういうふうに応えていくか、人々の叫びに耳を傾け、それに応えていく教会のあり方、特に貧しい人、病む人、悩む人、後回しにされた人、片隅に追いやられている人にとって教会が近づきやすく、温かい、そういう共同体であるということを示したい、そうなるために教会はどう変わらなければならないのかというねらいで開かれ、いろいろな提案をいただいたわけです。

それから6年後の93年に第2回目のNICEを開いて、今度は「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」というテーマになりました。人間を育み支える最も大切な単位とも言える、社会を構成する基本単位である家庭・家族、それが壊れかけあるいはもう壊れてしまっている。学校や施設・病院などでいろんな方と接していて、その方たちの家庭がどうなっているかといえば、本当に難しく厳しい状況にあると思います(皆様の方がよくご存知だと思います)。そういう現実があり、そういう家庭を教会としてどういうふうに導いたらいいか、支えたらいいか、助けたらいいかというようなことを話し合ったわけです。

また、今、この日本の社会には、経済的な問題とともに精神的な問題があります。この間の報道によると年間の自死者は3万人で、この数は11年連続であるそうです。人は何によって生きるか、なぜがんばって生きられるのか、逆に 、なぜ死に至らなければならないのか、人と人とのつながりの脆さ、弱さというものを感じます。特に東京とその周辺、首都圏に住む人々が、どのような思いで生きているのか、心を分かち合う友もいないか、いたとしても乏しい。そして厳しい競争と管理に明け暮れしている人々にわたしたちは何をすることができる でしょうか。

他方、そういうわたしたちではありますが、この世にあってこの世の悪に染まらず、潔く、きちんと生きていくことが求められております。聖霊の恵みが豊かに降り、この世にあって、イエス・キリストの福音を告げ知らせ、復活の光を示すという教会の使命をしっかり果たしていくことができますようご一緒にお祈りしたいと思います。