復活の主日ミサ説教

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    2009年4月12日 神田教会にて

     

     

    2009年の復活祭を迎えました。わたくしどもは四旬節、そして聖週間を捧げながら、今日のこの復活祭を準備してまいりました。復活祭は、主イエス・キリストの復活を記念し、喜び祝う日でございます。毎年読まれるヨハネの福音、その冒頭の言葉は、「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」という言葉です。毎年同じ言葉ですけれども、たいへん味わい深い場面であると思います。まだ暗いうちからマグダラのマリアは、イエスのお墓参りをいたしました。ほかの弟子はどうしていたのか分かりませんが、マグダラのマリアは夜が明けるのを待ちかねるようにして、イエスのお墓に行きます。そしてそこで、復活したイエスに出会います。今日の箇所では、まだそこが出ておりませんけれども、復活したイエスに出会った最初の人であると 言われています。男性の弟子たちはそのあとになるのです。教会の歴史のなかで、最初にイエスの復活を信じ、そして証言したのは、女性のマグダラのマリアであったと福音書は告げているのであります。このマリアであっても、すぐには信じませんでした。墓が空(から)であるということがまずあった。そして 次に、園の番人であると思われる人から「マリアム」と話しかけられて、初めて「先生(ラボニ)!」という言葉で返事をした。そう考えてみますと、復活のイエスに出会うということは、自動的に誰でもそうなったわけではない。やはり信仰というものがあって、その信仰もイエスの方から促されて、信ずることができるようになったと思われます。マグダラのマリア、そしてペトロをはじめとする弟子たちは、復活したイエスに出会いました。そして勇敢にイエスの復活を宣べ伝えました。

    いま、わたしたちはパウロの年「パウロ年」を過ごしています。6月29日までです。このパウロという人は、生前のイエスを知らない人です。たぶんこの十字架のできごとから3年ぐらいあとではないかと思われますが、3年後ぐらいにダマスコに向かう途中、復活したイエスに出会 います。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞き、そして劇的な回心を遂げました。パウロも復活したイエスに出会い、その体験によって異邦人の使徒となりました。教会は、復活したイエスに出会った人の証言によって成立し、そしてさらにその証言を信じた人がいて、このように世界に広がる大きな教会となってきたのであります。日本には、フランシスコ・ザビエルが1549年に福音を伝えてくれました。そして短い期間に、急速にキリスト教は広まったのでありますが、ご存知のように、迫害が始まり、多くの人が殉教いたしました。殉教というのは「証(あか)し」という意味であります。イエス・キリストの復活を信じた人が、地上の命をかけてその信仰を証しした。そういう人たちが殉教者、証人とよばれています。教会は、イエス・キリストを信じ、その復活を証しした人の系譜、次の世代に信仰を伝えて、そしてわたしたちのところまでそれがつながっているのであります。

    今日のパウロの手紙でありますが、コロサイの教会への手紙。パウロは言っています。「あなたがたはキリストともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」いま2009年の日本の教会、そして東京教区、そしていまこの神田の教会にお集まりの皆さんにむかって、パウロは「上にあるものを求めなさい」、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を魅かれないようにしなさい」と言っておられます。久しぶりに神田教会を訪問させていただき、この聖堂で、外から差し込む光を見ながら、このステンドグラスを透して差し込んでくる明るい光を見ながら、いま 、東京教区は主キリストの復活をどのように宣べ伝えていったらよいのかということを考え、思っております。東京教区はいろいろな課題をもっておりますが、とくに三つのことを 大切にしたいとかねがね皆様にお願いしております。三つの優先課題です。

    第一は、わたしたち信者の霊的成長。最初は信徒の皆さんの生涯養成と言っておりましたが、信徒だけが成長するということはないし、おかしい。信徒も、司祭も、司教も、修道者、奉献生活者も一緒に教えあい、助けあって霊的に成長しましょう、と。こういうことではないかと思います。どうしたらよいのか。これしかないということはありませんが、いまわたしたちは毎日、自分たちの霊的な成長をめざして祈っており、努めております。特にわたくしが最近感じていますことは、教会のなかでそれぞれの立場の人が自分の役割を忠実に果たすとともに、他の役割の人を尊重するということではないでしょうか。信徒と司祭がよく理解し合い、協力することが非常に大切であると思います。司教は言うまでもありませんが、信徒の皆さんは神父様のおっしゃることをよく聴く。同時に自分の意見も礼儀正しく、きちんと申し上げる。そしてどうしたらよいかをいっしょに考え、祈り求める。そういう教会であってほしいと思います。司祭も信徒の意見を聴いた上で、ご自分の考えははっきりと皆さんにお伝えするのがよいと思います。

    二番目の課題は、教会の多国籍化への対応ということです。もともと教会は多民族の教会であります。いろいろな民族、いろいろな文化、いろいろな言語を話す人の教会であります。最近、日本では、 特に東京教区では、多国籍化といいましょうか、いろいろな国から来られた信者の方が増え、日本籍の信者さんと同じ数の方がいらっしゃると推定されます。これは教会の豊かさを示すものであります。同時に、それぞれの側で努力、あるいは犠牲が必要になります。異なる考え方、異なる習慣を持っている者同士が一緒に教会をつくっているのでありますから、やはりよく理解しあい、ゆるしあい、受けいれあっていかなければならないと思います。東京教区では、「カトリック東京国際センター・CTIC」を白柳大司教様が創設なさいました。2010年に創立20周年を迎える予定であります。外国から来られ日本に滞在しておられる皆さんの生活面、それから信仰面をお助けすることが創立の趣旨でありました。いまはお助けするというよりもこちらが助けてもらうというようになっていると思います。明日の日本の教会をになう子供たちも、外国人のお母さんの子供であるという場合 が非常に多くなってきました。一緒に心を合わせて同じ教会として成長したいと思います。

    三つ目は、心の問題、心のケアということであります。「良い牧者運動」、「心のともしび運動」を創立し推進なさったハヤット神父様という方がおられて、東京教区所属でありますが、先日帰天されました。この神父様が提唱したことは、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」ということであります。わたしたちの心の闇に、キリストの復活の光をともしましょう、そういう運動ではなかったかと思います。本当にいま、生きるのが難しい時代、そういう状況ではないでしょうか。わたくしは現代の荒れ野ということを言っております。荒れ野というのは生物が生きるのが難しい環境です。人間はただ生物として生きるだけでなく、人間として、神の子として豊かに生きなければならない。そのために教会があります。教会は荒れ野の泉、荒れ野のオアシスでなければならない。そのために復活なさったイエス・キリストから力と光をいただき、おたがいに慰めあい、励ましあっていきたいと思います。特にわたしたちは言葉を大切にしたいと思います。良い言葉を相手に伝えることによって、その人の励まし、助けになるようにしたいと思います。逆に人を傷つけたり、人の仲を割く、そういう言葉を使わないようにしたい。仏教で「両舌」という言葉があるそうです。分かりやすく言えば、二枚舌。同じ舌で違うことを言って人の仲を割く。そういうことを両舌というのだそうですが、せめてわたしたちは人と人との関係を悪くするようなそういう言葉を使わないようにし、人を励まし、助ける良い言葉を使いたい。祝福というのはラテン語で«benedictio»、動詞でいえば«benedicere»という言葉ですが、「良いことを言う」という意味です。祝福は、良いことを言うという意味なのです。言葉には力がありますので、良い言葉をおたがいにささげあいながら、励ましあっていきたいと思います。