教区の歴史

教区の歴史

潮見教会訪問 四旬節第3主日ミサ説教

2009年03月15日

2009年3月15日 潮見教会にて

 

今日の第一朗読は、出エジプト記のモーセに十戒が授けられたことを告げる箇所です。今日のこの箇所に「わたしは熱情の神である」(出20・5)という言葉があります。「熱情の神」は「ねたみの神」とも訳されます。ヘブライ語では「エル・カナ」と言います。神学生のときに何度も恩師の口からこのヘブライ語の言葉を聞きました。イスラエルの神は、他に神があることを許さない神です。他のものを神とすることを認めない神です。自分だけを神として礼拝することを求める神です。旧約聖書を読むと、主なる神とイスラエルの民の交わりの歴史が展開します。イスラエルはモーセを仲介者として十戒を守るという誓約をしますが、度々それを破り、背信を繰り返し、主なる神、ねたみの神の怒りを引き起こします。今日の福音もその歴史の延長で受け取ることができるのではないでしょうか。イエスは言われました。

「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハ2・16)

共観福音書の並行箇所を見るともっと激しい言葉が見られます。イエスはエレミヤの預言を引用して言われました。

「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」(マタ21・13)

聖なる神殿が商売に利用され、また収奪の場となっているという非難の言葉です。聖なる神殿への冒涜の行為は神への冒涜であり、神だけを礼拝すべき民の背信と裏切りにほかなりません。 

戦後まもなくのことです。私が生まれ育った房総半島の山間部の集落にキリスト教の宣教師が来ました。学校の講堂で映画会が行われ、私も見に行きました。幼い私の記憶の中に、鳩がいっせいに飛び立つ場面だけがはっきりと残りました。多分今から思えば、これは今日の福音の場面、イエスが神殿の境内で宮清めを行っていた場面であったと思います。

イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。弟子たちはイエスが復活されたとき、このイエスの言葉を思い出します。イエスの言われた神殿とはご自分の体のことだと悟ります。

私は東京カテドラル聖マリア大聖堂の傍らに住み、朝晩、カテドラルを見て過ごしています。そして毎日祈ります。

「どうかわたしたち東京教区に、現代の荒れ野において悩み苦しむ多くの人のいやし、慰め、励まし、希望となって歩む恵みをお与えください。」(「東京カテドラルと教区のための祈り」より)

建物は建てた後も、絶えず管理し、注意を払って維持し修理しなければなりません。メンテナンスが必要です。しかし、建物は人間のためにあるのであり、建物が立派でも、人間が大切にされ日々新たにされ、清められるのでなければ、神殿は意味を失います。

教会はキリストの体と言われます。使徒パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(一コリ6・19) 

東京教区は都会の荒れ野の泉・オアシスでありたいと願っています。しかし、わたしたち教会の現実には、そのようにはなっていない部分があります。教会共同体は人を助け、いやし、励ますべき人のつながりです。しかし、現実に少なくない人が教会の人間関係に躓き傷つき苦しんでいます。パウロの手紙を読めば、すでに最初の教会からして、醜い争いがあったことがわかります。(一コリ一・11参照)多くの殉教者を出したキリシタン時代の日本の教会においても権力闘争、汚職、醜聞もありました。教会はいつも罪人の集団です。しかし、罪人の中に聖霊が働きます。一人ひとりの中に聖霊が住んでおられる。そこからキリストの復活の光が差してきます。日々小さな出来事に中に差し込んでいる復活の光を見つめて、励ましをいただきながら「宮清め」を行っていきたいと思います。 

荒れ野のオアシスとなるという東京教区の使命の中で、この潮見教会はどんな使命、任務、役割を持っているでしょうか。蟻の町の教会から発展してきた教会です。潮見教会は昨年北原怜子さんの帰天50周年の記念を行いました。この蟻の町で北原怜子さんは戦後間もない時代、まだ日本が貧しかったとき、貧しい人々と共に生き、神の愛の証人となりました。今は経済的な貧困より精神的な貧困が大きな問題となっている時代です。年間3万人が命を絶っているという現実があります。教会には、荒れ野において孤独と暗闇に苦しむ人々へ神の愛と光を伝えていくという使命が与えられています。この使命を実行するためには、主イエスに倣って、過越の神秘を生きていかなければならないのです。過越の神秘は死から命への過越です。そしてイエスの十字架の神秘に倣うことだと思います。

特に今年の四旬節、清められたキリストの体として、復活の光に満たされた教会共同体として、新たに生まれ変わることができますようにと切に願い、祈りを捧げてまいりましょう。