司祭助祭候補者認定式、朗読奉仕者・祭壇奉仕者選任式ミサ説教

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    2009年3月8日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

    第一朗読 エレミヤ書 (エレミヤ31・31-34)
    第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙一 (Iテモテ2・1-7)
    福音朗読 マルコによる福音 (マルコ16・15-18)

     

     

    司祭助祭候補者認定を受けられる皆さん、朗読奉仕者・祭壇奉仕者に選任される皆さん、そして認定式・選任式に参加のためにここにお集まりの皆さん。

    今読み上げられた聖書の箇所は、エレミヤの預言の31章31節からの箇所、使徒パウロのテモテへの手紙一の2章の冒頭の部分、B年の福音であるマルコによる福音の終わりの部分である16章から取られました。わたしたちはこの聖書のメッセージから、わたしたちの信じる神とはどんなお方であるのか、わたしたち教会の使命は何であるのかということについて、今一度ご一緒にわたしたちの思いを深めてまいりたいと存じます。 

    わたしの心にまず浮かんできたのは今日のパウロの手紙、テモテへの手紙一の言葉です。

    「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2・4)このことをしっかりと心に刻みたいと思います。わたしたち教会はこの信仰を宣べ伝えるために派遣されています。「すべての人々」とは文字どおりすべての人、例外はありません。善人は救うが悪人は救わない、正しい人は救うが正しくない人は対象外、ということはありません。

    また「神はすべての人々が真理を知るようになることを望んでいる」のです。

    真理とは何でしょうか?イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ14・6)真理を知るとはイエスを知ることにほかなりません。聖書では「知る」という言葉は実に深い意味を持っています。旧約聖書ではしばしば「主を知る」「主を知らない」という言い方が出てきます。例えば、出エジプト記では「エジプト王ファラオは主を知らない」「主を知ろうとしない」と言われます。主なる神を認めない、その言葉に従わないということです。預言者はしばしば「イスラエルは主を知らない」と嘆き戒めています。イザヤの次の言葉を思い出します。

    「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(イザ1・3)

    また預言者エレミヤは次のような言葉を伝えています。

    「空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。」(エレ8・7)

    主なる神の嘆きです。主を知らないとは、主を神と認めずその言葉に聞き従わず、主を礼拝しない、あがめない、などを意味しています。

    イスラエルは主を知らないどころか主を裏切り、背信を重ねます。イスラエルは南北に分裂し、北王国がイスラエル、南王国がユダとなります。このイスラエルとユダに向かって主は激しい憤りを発します。もはや嘆きではなく怒りが爆発するのです。

    「どうして、このようなお前を赦せようか。お前の子らは、わたしを捨て、神でないものによって誓う。・・・これらのことを、わたしが罰せずにいられようかと主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。」(エレ5・7-9)

    まさに神が地団太踏んで怒っている、という表現です。その同じ神が憐れみの神、救う神なのです。背信の民を罰せずにはいられない、しかし憐れみに胸を焼かれるという思いもある。イスラエルを思うと心が痛まないではいられないのです。

    「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる。」(エレ31・20)

    そしてこのエレミヤの預言31章で今日の朗読の箇所となり、ここで「新しい契約」ということが出てくるのです。 

    出エジプトのときに結ばれた契約をイスラエルは守りませんでした。この民を神は怒りますが同時に民を深く憐れみ、何とか救おうと「契約のやりなおし」をします。これが新しい契約です。この契約は石の板ではなく胸の中、心の中に刻まれます。それは主の霊の働きによるのです。そのときになれば「主を知れ」と命じる必要はなくなるのです。そのとき主は彼らの悪を赦し、その罪を心に留めることはない、と主は言われます。

    この新しい契約の仲介者は主イエス・キリストです。神と人との仲介者は、人であるキリスト・イエスただ一人です。イエスはすべての人の贖いとしてご自身をささげました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3・16)のです。イエスの十字架は神の愛、怒りを超えた神の憐れみと痛みの実現でした。

    「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

    信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」(マコ16・15-16)

    このイエスの命令を受けて教会が誕生し教会が派遣されました。この日本の地において、2009年のわたしたちの教会は、神の愛を告げ知らせるために、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、神は愛であることを証しするために、今ここに派遣されています。

    今日、認定を受け選任される皆さん、あなたがたはこの新しい契約の奉仕者となるのです。この荒れ野である現代社会のなかで、神の慈しみの証人とて生涯をささげることができますよう、日本の殉教者の取次ぎによって祈りましょう。