教区の歴史

教区の歴史

世界病者の日ミサ説教

2009年02月11日

2009年2月11日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で

 

第一朗読 イザヤの預言35・3-10
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙8・18-27
福音朗読 マタイによる福音8・5-10,13

 

2月11日はルルドの聖母の祝日です。故ヨハネ・パウロ2世はこの日を「世界病者の日」と定めました。教皇様ご自身病気を背負い、苦しみながらその任務を全うされた方です。東京教区では2006年より大司教司式による「世界病者の日」のミサをささげてきました。ミサは教区本部の主催ですが本部と福祉委員会がミサを準備し、福祉委員会がミサ後の懇親会を担当します。 

今日の福音は有名な、百人隊長の僕のいやしの話です。イエスが「わたしが行って、いやしてあげよう」というと百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と答えました。イエスはこの百人隊長の答えに感心して言います。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」そしてそのとき、即座に中風の僕はいやされたのでした。この百人隊長は当時パレスチナを支配するローマ帝国の軍人であり、いわば占領軍の隊長に当たる人間です。それなのにイエスはその信仰を絶賛しています。 

実はイエスが信仰をほめる話が福音書には何箇所か出てきます。大変興味深い箇所です。

例えば同じく中風の人のいやしです。

「(イエスが御言葉を語っておられると、)四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(マルコ2・3-5)

屋根をはがしてですからすごいです。イエスは病人本人ではなく、屋根をはがして中風の人をつり降ろした人たちの信仰に感心しています。

また、12年間出血症で苦しんできた女性に向かってイエスは言いました。

「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9・22)

また、悪霊に取り付かれてひどく苦しんでいた娘の母親に向かって言いました。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15・28)

バルティマイという盲人をいやしたときにもイエスは言われました。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ10・52)

またイエスは重い皮膚病の人10人をいやしましたが、戻ってきて神に賛美をささげたのは一人のサマリヤ人だけでした。イエスは言われました。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17・19)

イエスは実に数多くのいやしを行いました。実にイエスはいやしの人でした。そしていやしは信仰との深い関係のうちに行われています。故郷のナザレでは多くの人はイエスに躓(つまづ)きました。そこでイエスは僅かの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができませんでした。

「そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6・6)とあります。 

神はわたしたち人類の幸福、健康、平和を望んでおられます。イエスの福音は神の国の福音と言われます。神の国とは神の支配という意味、それは悪の支配からの解放です。イエスはたびたび悪霊、汚れた霊の追放を行っています。悪霊とは悪の支配の霊的な力です。

「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ロマ14・17)

人間だけでなくすべての被造物は、解放のときを待ち望んでいます。人間にとってそれは完全な贖いに与るとき、キリストの復活の栄光の体に変えられるときです。世界にとってそれは神の新しい天と地の創造のときです。預言イザヤはそのときの状態を、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地には川が流れる」(イザヤ35・5-6)というイメージで説明します。現代の荒れ野である東京で新しい天と新しい地が現れるとしたらどんなイメージになるでしょうか?

イエスは言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネ16・23)

「世界病者の日」を迎え、わたしたちはイエスが感心されたような単純、素朴であり、強く深い信仰を持って、すべての人に健康と平和が与えられるように神に祈りたいと思います。 

教皇ベネディクト16世は2009年の「世界病者の日」のメッセージのなかで、わたしたちの注意を、子どもたちに向けるよう勧めています。

子どもは無力で無防備な存在です。世界中に、病気、障害で苦しむ子どもたち、紛争や戦争の結果、心に傷を負っている子どもたち、家庭を奪われて保護者から捨てられてしまった子どもたち、大人から虐待を受けて大きな心の傷を持っている子どもたち、難民・避難民の子どもたちがいます。わたしたち教会はこの子どもたちを神の家族として受け入れ、神の愛を分かち合う家族として共に歩んで行きたいと願います。わたしたちの存在と働きをとおして神の愛が、特にこの子どもたちに現れ伝えられますように。今日は特にこの願いを慈しみ深い父なる神におささげいたしましょう。