聖パウロの回心のミサ説教

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    2009年1月25日 麹町教会で

     

    第一朗読 使徒言行録22・3-16
    第二朗読 一コリント7・29-31
    福音朗読 マルコ16・15-18

     

    「東京カテドラルと教区のための祈り」という祈りをご存知でしょうか?

    その中に次のような箇所があります。

    「どうかわたしたち東京教区に、現代の荒れ野において悩み苦しむ多くの人々のいやし、慰め、励まし、希望となって歩む恵みをお与えください。」

    わたしの念頭にはいつもこの祈りがあり、日々わたしの心にこの祈りがこだましています。

    本当にわたしたち東京教区は現代の荒れ野に置かれています。生きるのに難しい環境、生きる力がそがれる厳しい状況、孤独に苦しみ、暗闇に押しつぶされそうな思いで日々を過ごしている、そういう人々が少なくはないでしょう。

    イエスは弟子たちに言われました。

    「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」また言われました。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

    今、福音化の使命を遂行しているわたしたち東京教区に、人々をいやし励まし、主イエスの復活の恵みを宣べ伝える恵みを与えてくださるよう、ペトロ岐部と187殉教者の取次ぎによって心から祈ります。 

    今日、ここ麹町教会(イグナチオ教会)で聖パウロの回心のミサをささげるにあたり、わたしはもし聖パウロなら現代の東京でどのように福音を告げ知らせるだろうかと考えています。

    今日の第一朗読が告げているようにパウロはダマスコへの途上で復活したイエスに出会い、劇的な回心を遂げました。パウロに起こったこの出来事は何であったのでしょうか?パウロの心の中で何が起こったのでしょうか?

    彼は有名なラビ、ファリサイ派のガマリエルから熱心に律法を学び、他の誰よりも熱心なユダヤ教徒でした。イエスは安息日の掟を破ったとしてファリサイ派の人々と激しい対立を引き起こしました。律法を破るイエスとその弟子たちの存在はどうしても赦せず、キリスト教徒を迫害し、殺しさえした、と自分で告白しています。このパウロがどうしてイエスの使徒となったのか?

    彼は律法を守ることに熱心でした。大変な努力をしたと思います。しかし、律法を完全に遵守するなど人間にはできません。イスラエルの歴史は神の律法を破り、主を裏切り主に背く民と、その民に怒り憤る神との歴史であります。旧約聖書には不思議、不可解とさえ思われるほど、たびたび神の激しい怒りが表明されています。いくら言って聞かせても言うことを聞かない頑ななイスラエルの民です。それでも主なる神はイスラエルを見捨てません。預言者の言葉のうちに、罪を犯すイスラエルを憐れみ救おうとする神の思いが現れています。

    「ああ、エフライムよ

      お前を見捨てることができようか。

      イスラエルよ

      お前を引き渡すことができようか。

      アドマのようにお前を見捨て

      ツェボイムのようにすることができようか。

      わたしは激しく心を動かされ

      憐れみに胸を焼かれる。

      わたしは、もはや怒りに燃えることなく

      エフライムを再び滅ぼすことはしない。

      わたしは神であり、人間ではない。

      お前たちのうちにあって聖なる者。

      怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11・8-9)

     

    この神の思いを「神の痛み」と呼ぶ神学者がいます。神の痛みは次第にイスラエルの贖い、そして十字架による贖いという理解へと発展します。

    パウロはローマの信徒への手紙で「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(3・20)と言っています。パウロは自分の力を信じ、自分で正しく生きて神の御心を満たすことができるという自負の念を持っていたのでしょう。しかし、その自信と自負が崩され壊れてしまったのです。そのような苦しい体験の凝縮がこの「律法を実行することによっては誰も義とされない」という言葉に込められているのではないでしょうか。義とされるとはわかりにくい表現ですが、神とのあるべき、正しい関係、つながりに入る、ゆるしを受ける、神の命にあずかる、などを意味しています。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3・20)と告白しています。努力しても努力しても、自分はだめだ、という思いしか出てこない、これがパウロの体験であったのかもしれません。そのパウロに復活したイエスが現れパウロを虜にします。

    パウロは言います。

    「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ3・21-25) 

    イエス・キリストの十字架はわたしたちの罪の贖いであり、「罪を償う供え物」であるとパウロは言います。「罪を償う供え物」という表現は、東洋の文化ではわかりにくい表現ですが、前述のホセアの言葉を思い出すと少しわかるような気がします。教皇ベネディクト16世は回勅『神は愛』のなかで、このホセアの言葉を説明しています。

    神は正しい神、義なる神ですが、同時にゆるす愛の神です。義と愛の間に葛藤が生じているかのようですが、結局、神の愛が神の義に勝ります。人をゆるしたい、救いたい、という神の思いがあまりに大きく強いので、神が人間になり、死に至るまで人間に従い、神の正義と愛を和解させたのです。(『神は愛』10参照)

    パウロは旧約聖書の律法によく通じていた人でした。パウロはイエスの十字架の意味を旧約聖書の教えをとおして理解して説明しています。おそらく復活のイエスに捕らえられたときに、一瞬にして、この神の愛を悟ったのではないでしょうか。 

    神は罪を憎み罪人を懲らしめる神、しかし、人を慈しみゆるし、神の命と幸せに導く神です。神は父の愛と共に、母の愛をもって罪人をいとおしまれます。

    使徒ヨハネの言葉が心に浮かんできます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ3・16-17)

    現代の荒れ野においてわたしたちはむしろこの母なる神の愛を伝えることが求められているのではないでしょうか。

    この世の有様は過ぎ去ります。しかし、神のいつくしみは絶えることがありません。自分の思い、自分の計画へのこだわりをすて、大きく深く強い、この神の愛に信頼して歩んでまいりましょう。