教区の歴史

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八王子教会待降節第3主日ミサ説教

2008年12月14日

2008年12月14日 八王子教会で

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

待降節第3主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。パウロのテサロニケの教会への手紙のこの箇所が読まれます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」すばらしい言葉です。でも実行可能なことでしょうか?人生には苦しみ、悲しみ、悩みがいっぱいあるのではないでしょうか?実際パウロの生涯も困難と苦悩でいっぱいでした。パウロは使徒としての労苦を数え上げています。(コリント二11・23-30参照)また彼の身には一つの「とげ」が与えられ、それを取り去ってくださるよう彼は三度も主に願ったが聞き届けていただけなかった、と記しています。(コリント二12・7-9) 

しかし同じパウロは不思議なことを述べています。

主はパウロに言われました。「わたしの恵みはあなたには十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ。」(コリント二12・9)

そこでパウロは言います。

キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12・9)

パウロは弱い土の器である自分をとおして現れる神の力を信じ、喜び讃えて生涯を送り、殉教の最期を遂げました。 

今日の第一朗読は有名なイザヤの主の僕の歌から取られています。

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。

わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を

つながれている人には解放を告知させるために。」

この箇所はイエス自身が故郷のナザレにおいて宣教を開始されたとき、読みあげたイザヤの書であり、2000年の大聖年の際、よく読まれた箇所(ルカ4・16-21)であります。主の僕は油注がれた者、すなわちメシア、キリストであり、聖霊によって神の力を与えられた者であります。聖霊は人の弱さのうちに働く神の力です。 

1623年12月4日、江戸の札の辻でヨハネ原主水と他の49人が火刑に処せられ、殉教し、神の愛の証人となりました。

原主水は1587年、今の佐倉市(千葉県)にある臼井城で生まれ、1600年大阪でモレホン神父から洗礼を受けました。将軍徳川家康の「走り衆の頭」(将軍警護役の隊長)となり、得意の絶頂にあり、出世のエリート・コースを歩んでいました。しかし1615年逮捕され、両手の指を切り落とされ、額に焼印を押され、腿の筋を切られて、追放され、すべてを失いました。多分そのときから彼の信仰の証しが始まりました。その後、彼はハンセン病者とともに生き、江戸の教会の中心人物となりました。かつての部下に訴えられて捕らえられ、火あぶりの刑を受けます。そのとき群集に向かって叫んだ原主水の言葉が残っています。

「私は異教徒の誤謬を憎んできた。この理由で長年前から火焙りになる今日まで追放でも何でも甘受して参った。私が極端な責め苦にも耐えてきたのは唯一救済に導いてくれるキリシタン宗の真理を証拠だてんがためである。私の指は全部切り取られ足の腱も切られ而も初めから私の行きつく所を知った。私のこの切られた手足が何よりの証拠である。私は贖い主であり、また救い主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に苦しみを受けていま命を捨てるのである。イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬に在すであろう。」

地位、身分、愛する友、愛する女性、身体の自由を失い、恥辱と苦悩の中に投げ込まれる。かつ癩病と呼ばれた、隔離され忌み嫌われたハンセン病者とともに過ごしました。得意の絶頂から失意のどん底に落とされたのです。この体験が彼の信仰を深くさせました。彼は十字架のイエスと出会い、イエスの愛を知り、イエスと離れることのできない人となりました。「イエス・キリストは贖い主、救い主」という信仰を告白して殉教したのです。殉教する原主水は今のわたしたちに大きな存在感を与えます。

まさに失意のどん底で神の恵み、神の力を知った者の信仰の強さを証しする生涯でした。 

ところで400年たった現代はどんな時代でしょうか。 

自分の存在の意味が分からない、どこから来てどこへ行くのか、頼りない。他者とのつながりが薄いだけでなく、自分の存在の根源が疑問であり、曖昧である。年間3万人が自死を遂げる時代です。

一人ひとりの存在の意味と尊厳を自覚することが人生の目的です。今、迫害や禁教はありませんが、もっと難しい状況があるような気がします。自分で自分を肯定できなくさせている目に見えない悪の力が存在しています。

謙遜・柔和な幼子をわたしたちの心にお迎えし、弱さの中に働く神の恵みに心から感謝しながら、主の降誕をお祝いいたしましょう。