ヨハネ原主水列福記念 千葉地区の集い

    image_pdfimage_print

    2008年11月3日 習志野教会で

     

    聖書朗読 ローマの信徒への手紙5章 1節-5節
    福音朗読 ヨハネの福音12章 24節-26節

     

    原主水は現在の千葉県佐倉市にあった臼井城で生まれ、1623年12月4日、江戸の札の辻で殉教した人です。今日、原主水の列福を記念し、その信仰に学ぶために千葉県の3つの宣教協力体の皆さんが習志野教会に集い、千葉地区の集いが行なわれています。これは大変喜ばしく嬉しいことであります。

    わたくしは『東京教区ニュース』に原主水の生涯について寄稿された教会史家の高木一雄さんに教えられ、原主水のことを少し調べてみましたのでその内容をお話しします。

     

     

    「原主水は、よく見えるように、大きな馬に乗せられ、大路を引き回されることになっており、先触れは、群集に向かって、絶えず次の如く繰り返すことになっていた。『将軍様が、キリシタンを大嫌いになることは此の通り、お身内でも容赦はない。』

     (省略)

    原主水は刑場に着くと、話したい事があると言い、群衆に向かって口を切り、次のような立派な言葉を述べた。

    『私は異教徒の誤謬を憎んできた。この理由で長年前から火焙りになる今日まで追放でも何でも甘受して参った。私が極端な責め苦にも耐えてきたのは唯一救済に導いてくれるキリシタン宗の真理を証拠だてんがためである。私の指は全部切り取られ足の腱も切られ、而も初めから、私の行きつく所を知った。私のこの切られた手足が何よりの証拠である。私は贖い主であり、また救い主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に苦しみを受けていま命を捨てるのである。イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬に在すであろう。』

     (省略)

    ヨハネ原主水は、間もなく、息を引き取った。彼は長々あこがれていた天国にきっと導いてくれる焔を抱きたいように、指を切られた腕を伸ばした。彼は、地面にうつむけに倒れた。

    (レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』、岩波文庫、中巻292-295ページ)

     

     

    火焙りの刑に処せられるときに、原主水はこのように自分の信仰を宣言しました。私は、この彼の言葉はどういう意味だろうかとずっと考えてきました。そして今は、多分こういうことだろうと考えています。

    自分はキリスト教こそ自分を救ってくれる真理の教えであると信じ、この真理を証しするためにはいかなる苦難にも耐え、どんな責め苦にも屈しないで生きてきた。この指を切られた手、腱を切られた足がその証拠である。今自分はイエス・キリストのために命を捨てる。キリストはわたいの贖い主、救い主であり、わたしに永遠の命をもたらしてくださる。 

    今日の聖書朗読でパウロは、

    〈神を信じて義とされた者は、苦難から忍耐を学び、忍耐によって練達に至り、練達は希望をもたらす。なぜなら神の霊によって愛が心の中に注がれているからである〉

    と教えています。原主水は殉教の時を大いなる勇気と希望をもって迎えています。まさにパウロのこの言葉が彼にあてはめられるでしょう。

    今日の福音でイエスは言われました。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(ヨハネ12・26)

    原主水はこのイエスの言葉に信頼し、イエスのもとへ、父の家へと旅立つことを固く信じていました。このような原主水の姿と言葉には非常に強い臨場感、存在感、鮮やかな輪郭があります。 

    400年後の現在、宗教への迫害はありません。しかし今、人間の自由、創意、自発性というものは何か見えない力によって大いに統制され圧迫されているのではないでしょうか。人間の存在の乏しさ、薄さを痛切に感じます。400年前の人の方がはるかに強い存在感があるのです。

    「現代における信仰の証し、殉教は何であるか」が大きな課題です。わたしたちが互いにどれだけ、人をかけがえのない存在として認め合い、尊敬し合うことができるか、ということにわたしたちの教会の明日がかかっていると思います。