教区の歴史

教区の歴史

死者の日・合同追悼ミサ説教(カテドラル)

2008年11月02日

2008年11月2日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で

 

 

今年は死者の日が日曜日と重なりました。

本日、教会は世界中で、亡くなられたすべての人の霊魂の平安を願ってミサを捧げます。わたくしは今日、ここ東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下の納骨堂に葬られているすべての人々のために、また特に、東京教区で働かれたすべての司教、司祭のためにこのミサを捧げます。この1年を振り返ってみますと、昨年11月8日にステファノ濱尾文郎枢機卿様が帰天され、その翌日にはカジミロ澤出光一郎神父様が亡くなられました。特にお二人を思い起こし永久の安らぎのために祈りを捧げたいと思います。 

死者の日は天に召された方々を思い起こし、その方々をとおして示された神様の恵みに感謝するときです。神は多くの人との出会いをとおしてわたしたちを導き助けてくださいました。神様と故人の皆様に心から感謝いたします。 

また今日は過去に学ぶとき、歴史に学び反省するときでもあります。人類の歴史は神の救いの歴史であると共に、罪と失敗、挫折と過ちの歴史です。今日わたしたちは人類としても、教会としても、個人としても過去の過ちから教訓を汲み取るべきときであります。

誰も自分の意志で生まれてきた人はいません。生まれて与えられたこの世界は既に罪で汚れ、戦争、紛争、争い、差別、暴力、病気、障害、貧困・・・ありとあらゆる問題と悪で歪み壊れた世界であります。わたしたちは、先の世代が積み上げた悪の蓄積の中でしか生きられないのです。そこでほぼ不可避的に、わたしたちはこの世の罪と悪に染まり、侵され、先人たちと同じ過ちに陥ってしまいます。かつてわたしたちは先人たちの悪行、失敗、不行跡に躓いたことがありました。しかし、気がつけば自分のなかにも同じ問題が存在していることに気づかざるを得ないのです。自分も同じ罪の子である、と痛感せざるを得ないのです。 

使徒パウロは言いました。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7・18-20)

自分も、ゆるされ、贖われ、清められなければならない者なのです。新しく生まれ変わることができればどんなにうれしいことでしょうか!

使徒パウロの今日のメッセージはこのようなわたしたちへの希望であります。

「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリント二 4・16)

エレミヤ哀歌は言います。

主の憐れみは決して尽きない。

それは朝ごとに新たになる。

「あなたの真実はそれほど深い。

主こそわたしが受ける分」とわたしの魂は言い

わたしは主を待ち望む。(哀歌3・22-24)

この希望はイエス・キリストの復活によって実現します。

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6・39-40) 

永遠の命に入るとは新しく生まれ変わり、主の復活に与ることであります。地上を去った霊魂は復活の栄光の体に変えていただけるのです。

わたしたちは先人の生涯をとおして示された神の恵み、神の業、神の栄光を知り、また同時に、彼らをとおして見えてきた人間の弱さ、過ち、乱れ、惨めさなどを知ります。

わたしたちは彼らの救いと永久の平安のために祈ります。 

地上のわたしたちは今日、このミサの祈りにより、先人たちがイエスによる贖い、清めに与り、神と共にある幸せに達するよう、助けることができるのです。地上を去った人々と地上のわたしたちとの間には霊的交わりがあります。すなわちこれが「聖徒の交わり」ということであります。わたしたちは地上を去った人々のために祈ることができるし、また天上から、地上のわたしたち自身の幸せのために助けていたいだくこと、祈っていただくこともできます。

今年は殉教者列福の年です。殉教者に学び、殉教者の取次ぎを願うことは大切ですが、同時に自分たちの先人、家族、友人でこの世を去った人を思い、祈ることも大切であると思います。わたしたちを日々新しく生まれ変わらせてくださいますように、また東京教区がその使命を忠実に果たすことができますように、このミサにおいて心を込めて祈りましょう。